岡崎ホープチャペル発行の週報(2023.11.5)より
聖書箇所:ルカの福音書 18章 1節〜8節
ルカの福音書 18章1節
私たちの祈りには希望があることが大切です
イエスさまは弟子たちに対して、いつでも祈るべきあり、失望してはいけないことを教えるために、あるたとえ話を用いて励ましをくださいます。私たちの祈りには、いつも希望があるでしょうか?いろいろな問題、試練や希望が見えない時もありますよね。でもイエスさまは、「失望してはいけない」と言うのです。いつでも祈る私たちの祈りに希望があることが大切だと言われます。
なぜなら祈りとは、私たちの信仰告白でもあるからです。
祈りを通して神さまに対する信仰が増し加えられ、また力をいただくことができるからです。もし祈りながら落ち込んでいく、祈りながら心配が増していく、祈りながら否定的になっていくなら、今日から私たちの祈り方を変えていく必要があります。ここでイエスさまは「決して〜しなければならない」と言う強い意志をもって祈ることを教えておられます。じゃあどうしたら、失望しないで祈れるのでしょうか。
どうして失望する必要がありますか?
ここで一人のやもめが不正な裁判官に訴えかけます。「私を正当に扱ってください」と訴えかけています。神さまを愛することも、隣人を愛することもない、真っ向から神さまに逆らっている裁判官に対して、「私を正当に扱ってください」とひっきりなしに訴え続けるのです。やもめには、判定を覆す知恵も権力もなく、裁判を有利に進める人脈も、賄賂を渡す経済力もありません。不正な裁判官にとっては、何のメリットもない「被告(訴えられる人)」です。しかし、あまりにもひっきりなしに懇願しに来るので、しょうがなくやもめの訴えを聞き入れます。ここまでがイエスさまのたとえの前振りです。ましてや、真実な神さまならどうでしょうかと続きます。私たちは誰に祈っているのでしょうか。私たちはどなたに訴えかけているのでしょうか。そのことを知るとき、どうして失望する必要があるのかとイエスさまは問いかけてくれます。
相手だけでなく自分もジャッジされます
もう一つ大切なことは、みなさんは神さまに祈る時「正しく私を裁いてください」と祈ったことがありますか?私たちが神さまに訴えかけるときに、私たちも神さまのジャッジの前に立っていることを理解すべきです。このやもめは、正しいジャッジを求めました。すなわちそれは、相手側だけでなく自分もジャッジされると言うことです。
ルカの福音書 18章8節
イエスさまはご自身が再び来られるとき、このようにとりなし祈るやもめの祈りを、やもめの信仰を求めておられます。最近の世界情勢を見るとき、私たち教会の祈りのあり方を考えさせられます。いつでも祈るべきであり、失望してはいけない!イエスさまの励ましを受け取りましょう。