「ピラトの不義」ルカの黙想:学び第50回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2024.2.4)より
聖書箇所:ルカの福音書 23章 1節〜25節

この世には不義が満ちています

不義とは、人の道から外れる行い、不正が働くことです。イエスさまの十字架刑における裁判にはこの世の不義が満ちていました。死刑を宣告し、執行する権限のない祭司長、律法学者たちは、イエスさまをユダヤの司法権を持つローマの総督ピラトのもとに連れ出します。ピラトは、イエスさまに反逆罪や納税拒否などの「罪は認められない」と何度も宣告しますが、祭司長、律法学者たちは民を扇動し、群衆たちを引き連れ、暴動を起こそうとします。祭司長たちの不義は自分たちのプライド、立場を守るための行いでした。ピラトは何度もイエスさまの無罪を宣告しているので、彼は良い人のように錯覚してしまう部分があります。彼に同情してしまう人も多いと思います。でもピラトの名はこれから後、2000年経った今でもイエスさまを苦しめた者として覚えられます。だからこそ、私たちもこの不義に対してきちんと向き合う必要があります。

ピラトの不義の1つ目は、自分の責任を転嫁しようとしたことです

ピラトが最高法廷での議決権を持っていました。罪が認められないなら、そこで判定を下しイエスさまを釈放することができました。しかし、この判決における人々からの批判、自分への責めを軽減しようとして、ユダヤの国主ヘロデを巻き込みます。これをきっかけに、それまで敵対していた2人が仲良くなります。闇の力が動いていきます。これがひとつ目の不義です。

ピラトの2つ目の不義は、懲らしめたうえで、釈放することです(16節)

イエスさまが無罪であることを宣言したのに、ユダヤ人の心をなだめようとして「罪のない方」に刑罰を与えると言う不正を犯しました。ピラトの思いでは、少しだけ刑罰を与えてもまあいいだろう、というのがあったと思います。けれども、事態はどんでもない方向に向かいます。不義に対する妥協は、いつも大きな問題を引き起こします。

ピラトの3つ目の不義は、過越の祭りのときに行なわれる「特赦(恩赦)」の対象にイエスさまを加えたことです。

イエスさまは、囚人でも何でもないのに、あたかも有罪判決を受けた者のように「特赦」の対象にあるように取り扱っているのです。ピラトは、群衆たちの圧力に押され続け、不義に対して、また違う不義で誤魔化そうとしてしまいす。

最後にピラトの不義は、イエスさまを十字架刑に引き渡す決断をしました。

闇の力が働く中で、多くの不義がなされていきました。今の時代も何ら変わりません。闇の力が働き、不義が横行し、イエスさまに従うことを阻もうとしてきます。しかし、死に渡されるはずの私がいのちを得た。バラバは私たちの姿です。この福音をしっかり握ってイエスさまを見上げましょう。ハレルヤ!

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