「十字架への道」ルカの黙想:学び第51回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2024.2.11)より
聖書箇所:ルカの福音書 23章 26節〜32節

イエスさまは夜通し不正な裁判に引っ張り回され

拷問を受け、極度の痛みと体力の限界のため十字架を担ぐことができませんでした。そこで、ローマ兵が「いなかから出て来たシモンというクレネ人をつかまえ」、彼にイエスさまの十字架を負わせます。クレネというのは、北アフリカの地中海岸の植民都市です。今は国連によって世界遺産に登録されているリビアにあたります。ここからシモンは、過越の祭りを祝うためにエルサレムにやって来たのです。シモンは無理やりイエスさまの十字架を負わされ、イエスさまとともにゴルゴダへの道を歩むことになります。実に不本意なことだったでしょう。私たちの人生にも、不本意と思われることが起こります。自分の生まれに対して、自分では選べません。思い通りにいかない人生を負わされることもあります。だけど、その中でシモンはイエスさまと出会います。

シモンはイエスさまの後ろからイエスさまの歩かれる姿をずっと見てついて行くことになります。

そしてイエスさまの十字架上での死を一番近くで見ることになりました。その後、シモンはどうなったのでしょうか?

「さて、アンテオケには、そこにある教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれる シメオン、クレネ人ルキオ、国主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどという預言者や教師がいた。」
使徒の働き13章1節

この「ニゲルと呼ばれるシメオン」がシモンと同じ名前です。たぶん彼自身がアンテオケ教会の指導者の一人となったのでしょう。思いもよらない方法で神さまは彼の人生に介入して、彼の人生に神さまの栄光を現してくださいました。私たちも同じですね。イエスさまと出会い、イエスさまと共に十字架を負い(誇り)、神さまが私のうちになされる御業を見ていくのです。

最後にイエスさまと一緒にゴルゴダへと十字架を負って歩んでいたのが二人の死刑囚です。

彼らも十字架につけられるために、その道を歩いていました。彼らにとっては、その道は死へと向かう道であり、希望はありませんでした。罪から来る報酬は死です。死に向かって十字架を負って歩む道には、どれほどの絶望があったことでしょうか。しかし、イエスさまは死の向こう側にある復活の希望を確信して十字架の道を歩まれました。その道は苦しく、非常に困難でしたが、その先にはすべてを覆って余りある喜びと救いの完成がありました。ゴルゴダへと続く道を、私たちを生かすためにイエスさまは歩かれました。私たちの歩んでいる道は、その希望へと続いている道です。信仰によって与えられる希望をもって、与えられている人生をイエスさまとともに歩んでいきましょう。ハレルヤ!

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