「無条件の赦しとは」ルカの黙想:学び第52回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2024.2.18)より
聖書箇所:ルカの福音書 23章 32節〜43節

十字架刑は、両手と両足を釘で打ち付けられ

手と足は次第に裂かれ、痛みと疲労のため踏ん張りがきかなくなって呼吸困難になり、窒息死させる残酷な刑罰です。多くの群衆は、その姿をただ眺めています。指導者たちはあざ笑ってイエスを馬鹿にしています。ローマ兵たちはイエスさまの衣をくじで分け、痛み止めの酸いぶどう酒を見せて嘲ります。十字架に付けられている犯罪人でさえ、自分が死ぬ間際になってもイエスさまをののしります。共通点は、みな自分が何をしているのか分からないのです。誰を嘲っているのか分からないのです。彼らの言い分はみな一緒です。自分がメシアなら「自分で自分を救ってみろ!」です。人々がイエスさまに対して言う「救い」とは、侮辱とか、苦痛とか、虚しさとか、失望とか、そのような状態から救ってみろと求めているのです。多くの人々は、イエスさまの十字架に何の意味があるのかが全く分かっていません。私たちも同じかもしれません。イエスさまは、そのような人々を十字架上から見ながら「父よ、彼らをお赦しください。」と父なる神さまに祈ります。

父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分で何をしているのかが分かっていないのです

でも、ひとりの犯罪人がイエスさまの言う「救い」の意味がわかりました。その答えは、「救い」を得た犯罪人の告白の中にあります。彼は、私たちに大切なことを語ってくれました。彼の求めた救いは「罪からの救い」でした。彼は十字架上で神を恐れることを悟ります。そしてイエスさまが何の罪のない、正しい方であることを認めます。そして、自分は罪人であり、罰を受けるべき存在であることを認めます。その上で、神さまのあわれみと、イエスさまの恵みを願いました。それを「悔い改め」と言います。イエスさまを信じるとは、神さまが居るかいないか?とか、その教えを信じれるか信じれないか、と言う議論ではありません。

「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分で何をしているのかが分かっていないのです。」
ルカの福音書 23章34節

私たちは、まず自分の罪が分かっていないのです。そして、他の人をすぐに罪に定めようとします。それで、もし神さまがいるならといつも条件をつけます。

イエスさまは、彼らを非難するわけでもなく

憎しみと恨みを持つわけでもなく、ただ神さまの赦しを求めました。イエスさまの赦しの求めは無条件でした。何をしているか分からないままの私たちを赦そうとしてくださいます。私たちが謝る前に、もう赦すことを決めておられるのです。
またイエスさまの赦しには時間的制限がありません。どれくらいイエスさまに従ったか、何十年も教会に通ったかも関係ありません。イエスさまの赦しを受け取った一人の犯罪人は、イエスさまが天の御国で王の位に着き、再びメシアとして迎えにくる時「私を思い出してください。」と言いました。でもイエスさまの答えは違います。「きょう!」でした。イエスさまが復活してからとか、この犯罪人が死んでから赦しがあるのではなく、今、犯罪人が告白したその瞬間から、彼はその祝福にあずかるようになったのです。ハレルヤ!今日があなたにとって救いの日、恵みの時なのです。

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