「信仰による義認」その② 信仰の父アブラハム 学び第14回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2019.04.14)より。
「創世記」信仰の父アブラハム 学び第14回
 聖書箇所:創世記 15章6節~21節

「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」6節

② 義認
神さまは、アブラムの応答(アーメン)に対して彼を「義と認め」られます。
「義と認める」とは、全き者、罪なき者と認めるということです。
そして、それはアブラムの信仰の強さにではなく、神さまの恵みによるのです。
アブラムは素晴らしい信仰者ですが、神さまの約束を信じきることができない者であり、自分の信仰に絶望した者です。
自分の信じる力にではなく、神さまを仰ぎ見ました。
私たちの信仰も同じですね。
神さまの義が、私たちの信じる力にかかっているならばすぐ躓きますし、すぐ落ち込みます。
私たちには、神の義を全うすることはできないからです。

「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」
ローマ人への手紙 4章5節

何の働きもない者、不敬虔な者」を義と認めてくださること、「全き者、罪なき者」と見てくださること、これが恵みであり、義認の本質です!
私たちのアイデンティティーとは、自分の内側にある「私はできる、できない。」とか「価値がある、ない。」という自分の基準、または人からの評価で縛られます。
しかし神さまから与えられるアイデンティティーは、神さまを信じた時に与えられる「何の働きもない者が、義とされる」という、この恵みを発見することによって確立します。
そして、その一方的な恵みも、選びもただ神さまの計画によると言うのです。

また彼に仰せられた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した主である。」7節

「わたしが、あなたを連れ出した」と言われます。
あなたをその異教の社会から、混沌とした悪が支配する領域から、そしてやがて滅びゆく世の楽しみから引き上げ、連れ出したのは、わたしだと言われるのです。
一方的にあなたを選び、一方的に恵みの領域に引き寄せ、一方的にここまであなたを導いてきたのは「このわたしだ」と言うのです。
ハレルヤ!
信仰も、義認もただ神さまの恵みです。

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