「あなたがわたしに罪を犯さないように。」その① 信仰の父アブラハム 学び第23回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2019.06.16)より。
「創世記」信仰の父アブラハム 学び第23回
 聖書箇所:創世記 20章1節~18節
  

神は夢の中で、彼に仰せられた。「そうだ。あなたが正しい心でこの事をしたのを、わたし自身よく知っていた。それでわたしも、あなたがわたしに罪を犯さないようにしたのだ。それゆえ、わたしは、あなたが彼女に触れることを許さなかったのだ。」創世記 20章6節

アブラハムは神さまがこよなく愛される人物の一人です。
今日でもユダヤ人をはじめ、クリスチャンの多くが信仰の父と尊敬する人物の一人です。
しかし聖書では、それと同時に一人の罪人としてのアブラハムの姿を正確に記録しています。
今回の箇所もあり得ない、マジですか、アブラハムさん。またですか、アブラハムさん。という箇所ですね。
なんでアブラハムはまた、愛する妻サラをいともあっさりと売ってしまうのかと。
それも愛する妻サラから約束の子が与えられると、やっと明確に神さまの計画が示されたばかりなのにです。

この信仰の父アブラハムストーリー全体を通して一貫して貫いているのは、アブラハムの信仰深さではなくて、神さまの恩寵です。
このアブラハム物語の主題「テーマ」は、神さまの恩寵です。
そして主役は、アブラハムではなく、あわれみ深い神さまご自身です!
私たちが、アブラハムの失敗だけに目を留めて見るときに、私たちは虚しい感情におそわれます。
でも私たちが目を向けるべきは、「恵み深い神さまの恩寵」です。

このことは、私たちの信仰生活にも言えます。
自分自身の弱さや罪にばかり目を留めて生きるときに、私たちは生きることがむなしくなってきます。
また人に対しても、その失敗や罪にばかり目を光らせるならば、神さまがなされるみわざを信じることができず、何に対してもすぐ否定的に裁きやすくなります。

私たちがいつも心に留めて置かなければならないことは、「神さまの恩寵」です。
もっとわかりやすく言うならば、イエスさまの十字架です。
私たちはいつも、イエスさまの十字架を通して自分自身を、また隣人を見なくてはいけません。
その時はじめて、神さまのあわれみを体験することになるのです。ハレルヤ!

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