「全き者であれ」その① 信仰の父アブラハム 学び第17回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2019.05.05)より。
「創世記」信仰の父アブラハム 学び第17回
 聖書箇所:創世記 17章1節~8節

アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現れ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」

アブラムが九十九歳になったとき」神さまは再び現れて、ご自分のみこころを確認させました。
16章の終わりを見ますと、ハガルがアブラムにイシュマエルを産んでから13年の月日が流れていることがわかります。
このたった1行の行間に、13年もの月日が流れているのです。
その13年の間に、何があったのでしょうか?そのことについては何も書かれていません。
でもその行間を黙想することも聖書を読むうえで意義あることだと思います。

アブラムとサライは、このイシュマエルこそ自分たちの後継者になるんだろうと考えるようになっていたでしょう。
イシュマエル(神は聞かれる)も13歳になり、ユダヤ人にとっては、もう立派な成人の証です。
ハガルにとっては神さまから「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので」と約束され、またその子は「すべての兄弟に敵対して住もう」とのみ告げを受けていました。
神さまの恩寵により、アブラム夫妻のもとに帰ったハガルとアブラム夫妻との間には、神さまのみこころに関する理解の違いがあったことでしょう。

サライには子どもが与えられないという孤独な現実があります。
本当にイシュマエルが後継者になるのかという葛藤があります。
ハガルには、自分の子がアブラムの後継者になるというなかで、女主人に本当にへりくだって仕えることができたでしょうか。
こじれた関係は続いていなかったでしょうか。
そんな葛藤を覚える年月ではなかったかと想像できます。
そしてある意味では、神さまが沈黙しておられた13年間であったとも言えるでしょう。
そのような中で、自分の感情と格闘しながら神さまのみこころを求めていくシーズンでした。
わからないことの中でもがきながら、天を見上げて葛藤し神さまに訴え続けるシーズンでした。

でもそのような時間も、私たちの信仰の成長には必要なのです。
なんでも明確にされることが私たちの益になるとは限りません。
そこには、信仰も希望も働く必要がなくなります。

「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」ローマ人への手紙5章3節~4節
ときに艱難や困難の中でもがくこともあります。
しかしその中で、確かに私たちは強められ、深められ、豊かにされるということを経験します。
葛藤の中で神さまに対して誠実に、また人に対して誠実であろうと努めるときに、私たちの品性は整えられていきます。
そのことを通して、主に似るものと変えられていくのです。
ハレルヤ!

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