「約束の時が来て」その② 信仰の父アブラハム 学び第26回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2019.07.07)より。
「創世記」信仰の父アブラハム 学び第26回
 聖書箇所:創世記 21章1節~7節
  

「主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。」

②「約束の時が来て」
アブラハムとサラは25年もの間、この約束を待たなければなりませんでした。
ところが約束の時が来て、神さまはその約束を果たされます。
1節に「主は、サラを顧みて」とあります。
「顧みる」とは、聖書では「救いの恵みをお与えになる」神さまの特別な配慮が臨まれることを表すことばです。
アブラハムの妻として、族長の妻として、子孫を残すことへの責任を一身に背負い、そこから来る緊張や孤独を抱えて格闘したサラに対して、神さまが顧みてくださるのです。
神さまは、それまでのサラの苦悩、格闘をすべてご存知です。
ご存知でありながら、「神の時」がありました。
しばらくその状況を受け入れて生きていかなければならない時があるます。
しかしついにその時が来て、特別な配慮が臨まれるのです!
もう一つ、この「顧みる」という動詞には大切な意味があるます。
それは、「神が訪れる」という意味を持っています。神さまの訪れの時が来た!ということです。
これまでは、夫アブラハムに現れ、アブラハムを訪れていた神さまですが、今回は直接、妻サラに訪れられ、喜びを告げ知らせます。

③「喜びの訪れ」
神さまは、約束のとおりに、死んだも同然のサラの胎に新しいいのちをお授けになりました。
サラにいのちが与えられたのです!
そのいのちを「笑い」と命名しました。
それは、「喜びの笑い」であり、「歓喜」の笑いでもあるでしょう。
けれども、この「イサク」という言葉には、もう一つの重要な意味が含まれています。
そう、それは神さまへの「嘲笑的(ちょうしょうてき)な笑い」でした。
それは、私たちの理解をはるかに超えた神さまの約束に対する笑い、自然の法則からは全く考えられない二人から子どもが生まれるという神さまの計画への笑いということです。
6節 「神は私を笑われ(イサクし)ました。聞く者はみな、私に向かって笑う(イサクする)でしょう。」
直訳するなら、このようになります。「神は私に笑いをつくられました。聞く者はみな、私に向かって嘲笑するでしょう。」
サラは、「ことばに尽くすことのできない喜び」に包まれています。
誰も想像できなかった喜びです。
「人から笑われてもいい!まさか、そんなことが!」そんな状況を与えてくださった神さまをほめたたえているのです。ハレルヤ!
今日、あなたにはこの喜びがありますか。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする