「愛を選び取ること」創世記マスタープラン 学び第18回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2021.06.27)より
聖書箇所:創世記 2章16節~17節

神である主は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」
創世記 2章16節~17節

神さまは人に役割を与えたあとで、「さぁ〜ではこうしなさい」と、具体的に二本の木を通して一つの命令を出します。エデンの園に置かれたアダムは、園にあるすべてのものを思いのまま食べてよかったのです。ただ一つ、「善悪の知識の木」から取って食べてはならないという神さまからの禁止事項が与えられました。そしてそれを食べると必ず死ぬと言われます。神さまは意地悪をしている訳ではありません。犬に「待て!」と言って、よだれを垂らしながら我慢させているわけでもありません。アダムは園のどの木からも自由に取って食べていいのです。

では神さまはなぜ、エデンの園の中央に「善悪の知識の木」を置かれたのでしょうか?

それは、アダムが神さまのことばに従うのか背くのか、その選択を与えるためでした。もちろん神さまは、アダムに罪を犯して欲しくありませんでした。神さまは、罪の結果が何であるかを前もってご存知でした。アダムがその木から取って食べ、罪を犯し、それによって苦しみと死をこの世界にもたらすことも知っておられました。でも神さまは、あえて選択を与えるために「善悪の知識の木」を置かれました。もしその木を植えなければ、罪は入って来なかったかもしれないのに。

なぜその選択が必要だったのでしょうか?

なぜなら、それなしには神と人とが、本当の意味で愛の関係を築くこと(共に生きること)ができないからであります。もし、神さまが人間に自由意志を与えなかったなら、人間は本質的にはプログラムされたことだけを行うロボットでしかありません。そこには愛の関係がないのです。それは神さまが望む「神のかたち」ではありません。神さまは私たちを、自分の意志で決定し、自分の意志でどちらかを選択できる「自由意志」を持つ存在として造られました。それが人間の尊厳でもあります。

この神さまが与えてくれた自由意志は、悪を生み出すことも可能にしますが、でも反対に悪を選ばないという選択をもたらします。

それがないと本当の意味での神さまとの愛の関係や喜びが分からないからです。この自由意志による選択が、唯一価値のある愛の関係を築くのです。神さまは、初めからアダムがこの実を食べれないように、ケルビムと炎の剣で守ることはできました。でもそれでは、価値ある愛の関係は築けないのであります。最初の人アダムは、祭司としての務め、王としての務めについてよく分からなかったかもしれません。この後、アダムはこの実を食べてしまいます。でも神さまは、初めからアダムを罪に定めるためにではなく、本当の価値のある愛の関係を築くため、神さまの喜びの中で生きることを悟らせるために、善悪の知識の木を植えられたです。ここに神の愛があるのです!放蕩すると分かっている息子に財産を与えるお方です。父の愛を知るために。ハレルヤ!

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