「主の山には備えがある」その① 信仰の父アブラハム 学び第30回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2019.08.04)より。
「創世記」信仰の父アブラハム 学び第30回
 聖書箇所:創世記 22章6節~14節

アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。
創世記 22章8節

①「神が備えてくださる」6~8節。
父と息子が神さまのことばに従い指定された場所に向かいます。
父は火と刀を手に取って、息子は全焼のいけにえのためのたきぎを背負ってついていきます。
イエスさまの十字架の型ですね。
黙々と山道を登るふたりの間の沈黙を破るのは息子のイサクです。
「お父さん、火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」と。
息子のイサクは、全焼のいけにえとして雄羊をささげることを知っています。
何度も父と一緒にささげていたのでしょう。
しかし今回は、父の雰囲気からしていつもと違うことに気づいていたのではないでしょうか。

父アブラハムは何と答えればいいのでしょう・・・神さまのご計画をこの時、この場で伝えるべきでしょうか。
「お前がそのいけにえなんだ。」と神さまのみこころを共有し、二人で泣きながらお互いをあわれみ、慰め合うことが必要だったのでしょうか。心が痛みますね。
しかしアブラハムは答えます。
アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。
アブラハムは神さまのご計画を自分の息子に明かしませんでした。
ただ「神さまが備えてくださる」と告白します。
愛する息子に、信仰の原則だけを告白します。

「備える」とは、言語では「見つける」「見る」の意味があります。
「すべては神さまご自身が見つけてくださる、見てくださるのだ。」ということです。
そのことを信頼するのが信仰です!
信仰の最終試験においてアブラハムは、ただ神さまが備えてくださる御業に期待します。

私は、何を見ているのでしょうか?
私たちクリスチャンは、何をみるべきでしょうか。
信仰の父アブラハムを通して教えられます。
信仰者は、神さまの備えを見る者ですね。
希望を見出せないときに、神のうちにある希望を見る者のです。
日々、弱さを覚える私たちですが、「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」との告白をもって、神さまのなされる備えに信頼していきましょう。
すべては神さま御手の中に、その信仰をもお与えくださいと!

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