「自由奔放におどる花嫁」雅歌の学び 第15回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2019.12.29)より
雅歌の学び 第15回
聖書箇所:雅歌 6章11節~7章9節

「もう一度出ておいで、シュラムのおとめ。もう一度出ておいで、姿を見せておくれ。
マハナイムの踊りをおどるシュラムのおとめに。なぜ、それほど見とれるのか。」
聖書箇所:新共同訳 雅歌 7章1節(新改訳 雅歌6章13節)

ここでは花嫁のことを「シュラムのおとめ」と言っています。
花嫁は、花婿の前でマハナイムの踊りをおどっています。
主の契約の箱をエルサレムに運び入れようとしたダビデとイスラエルの全家は、歓声をあげ、角笛を鳴らして主の箱を運び上りました。
その時、ダビデは主の前ではねたり、踊ったりしたことが聖書に記されています(Ⅱサムエル6:12~23)。
ダビデは身にまとっていた亜麻布のエポデを脱ぎ捨て、裸で、主の前に力の限り踊ったのです。
それを見ていたダビデの妻ミカルは夫を見下げました。
しかしダビデは「私は主の前で喜び踊るのだ」とミカルのことばをはね返します。
これが花婿の前で臆面もなく裸で踊る花嫁の姿でもあるのです。

7章1節に「高貴な人の娘」と訳された「バット・ナーディーヴ」(בַּת־נָדִיב)とは、「自由奔放な娘」と言うこともできます。
形容詞「ナーディーヴ」の動詞「ナーダヴ」(נָדַב)は、「自ら進んで~をする」というきわめて自発的な行動を意味することばです。
花婿の前で、他人を気にせず、その視線にとらわれず、ダビデがしたように自らを自由に表現する姿です。
律法ではなくて、自由にされた花嫁の姿ですね。
また「ナーディーヴ」(נָדִיב)は、既成の枠にとらわれない斬新さ、意外性をもった、型破りの、独創性のある生き方も意味します。
ダビデが契約の箱をエルサレムのシオンという場所に設置して礼拝したことは、とても斬新な発想です。
なぜなら当時はギブオンにモーセの幕屋があったからです。
また多くの楽器をもって、感謝と賛美のいけにえをささげました。
ダビデの幕屋の礼拝は、今日の教会のモデルともなっています。

イエスさまは言われました。「わたしは、あわれみは好むが(心からの礼拝)、いけにえは(形式的なささげもの)好まない。」

パリサイ人や律法学者たちのようにではなく、それは、自ら進んでささげる感謝と賛美のワーシップの様子です。
聖霊が豊かに臨まれるとき、ワーシップが回復されます。
花嫁なる教会の中に、こうした既存の枠組みにとらわれない「高貴な人」のように主に仕える生きた礼拝が回復することを願います。
制度や組織を存続させることだけに終始し、教会が固定化するなら、次第に花婿を慕い求める心を失った花嫁となってしまうのではないでしょうか。
花嫁の特性の中に、こうした主に対する良い意味での「自由奔放性」があることは、花婿の目を釘付けにしただけでなく、花婿が快く思ってくださるということを覚えたいと思います。(雅歌7:6)

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