「夕があり、朝が来る。」創世記マスタープラン 学び第5回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2021.03.28)より
聖書箇所:創世記 1章5節~6節

神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。

私たち日本人の一日は、うぉーーと「朝」起きて始まります。そして自分の力で起き上がり、自分を奮い立たせ、働き、努力し、成功するために頑張って1日を生きています。そして疲れ、行き着く先が「夕」ですね。私たちの感覚は「朝があり、夕が来る」です。この世の成功のために、自分の力で一生懸命頑張り「夕」「夜」に向かっていく。その「夜」とは光なき世界であり、そこには希望を見ることができない状態です。そしてイエスさまを知らない人生も「夕」に向かって行く人生と言うことができます。

しかし聖書の価値観は真逆です。

「夕があり、朝があった」の価値観です。「夕があっても、必ず希望の朝が来る」のです。「朝」が来るとは、必ず「昼」があるということです。そしてその「昼」とは「神のわざが現わされる時」なのです。盲人の目が開かれるときです。そしてこの「夕があり、朝があった」と言うフレーズは創造の六日目で終わっており、第七日にはありません。それは、神さまの創造の完成には「夜」がないということを示しています。この価値観は、様々な物事や生活のすべての考え方においても大きな影響を与えます。その視点は、いつもやがて来る希望を見ているのです

その「朝」明けは神さまを待ち望んだ結果として訪れる神の恩寵の時であり、希望の朝、解放の朝です。

私たちの中にも自分ではどうすることもできない「やみ」があります。その「やみ」があるとき、私たちは恐れが生じ、主の前から隠れます。そして自分を主張し、人を犠牲にしようとします。しかし自分の力でどれだけもがいても、その「やみ」を消し去ることはできません。
その「やみ」から勝利するのは、神さまの前に出ていくしかありません。ヤコブが格闘したように、神さまの前に出て、神さまのあわれみを受けなければなりません。それが悔い改めであり、そこから恵みが溢れ出ます。それが十字架です!
その「恵み」を受け取るとき、光が私たちの心に輝き出します。やみが消えていき「夜が明け、朝が来ます」
“神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。”
この神さまの変わりない救いの計画が、第一日、第二日、第三と続いていくのです。
ハレルヤ!

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