「乾いた所と海」創世記マスタープラン 学び第7回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2021.04.11)より
聖書箇所:創世記 1章9節~10節
 

神は仰せられた。「天の下の水は一つの所に集まれ。乾いた所が現れよ。」すると、そのようになった。神は乾いた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神はそれを良しと見られた。

神さまは「下の水」を分けて、そこに乾いた所と海とに区別します。神さまは「乾いた所」を「地」と名づけられました。「乾いた所」と訳されたヘブル語は「ヤッバーシャー」(יַבָּשָׁה)と言い、そのことばが使われている箇所は、出エジプトとヨシュア記のある出来事の時です。

「そこで、イスラエル人は海の真ん中のかわいた地を、進んで行った。水は彼らのために右と左で壁となった。」
出エジプト記 14章22節

それらを見ていくと、このことばがイスラエルにおいて特別な出来事と関係していることが分かります。そこには神さまの成される御業、守りがあります。何度も言うように、神さまの創造の御業のひとつは分離です。そこには境界線があり、それを「良し」とされます。では、なぜ境界線が必要なのでしょうか?それが私たちの守りと、私たちを聖い者とするため型でもあり、救いの概念です。「乾いた所」と「海」の境界線は明確であり、神がその境界線を守っているとエレミヤ書にあります。

「あなたがたは、わたしを恐れないのか。--主の御告げ--それとも、わたしの前でおののかないのか。わたしは砂を、海の境とした。越えられない永遠の境界として。波が逆巻いても勝てず、鳴りとどろいても越えられない。」
エレミヤ書 5章22節

境界線(詩篇32篇 6節〜7節)「救いの歓声」に囲まれている私たちは赦されるためにクリスチャン生活をしているのではありません。赦されるために、奉仕をし、良い行いをし、礼拝するのではありません。赦されるためにみことばに従っているのでもありません。それは「救い」ではありません。私たちはもうすでに赦された者として生きているのです。救いのカーテンの内側にいます。「あなたには罪を定めない。」その救いの歓声が、私たちの隠れ場であり、十字架です。神さまは、もうすでに私を赦してくださった!その事実が私たちを生き生きと活かします。その事実が私に力を与えてくれます。その事実により、私たちの口に賛美が溢れて来るのです。この境界線は私たちのためであり、私たちの守りであります。神さまの赦しの宣言こそ、私たちの救いです。

その境界線は、大海が押し寄せようとも、波が渦巻いても、大水の濁流が責め立てても決して越えることのできない永遠の境界線です。私たちは、この境界線の真実を知る必要があります。ハレルヤ!

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