詩篇51篇の黙想「十字架につけたのは私です」

岡崎ホープチャペル発行の週報(2022.3.20)より
聖書箇所:詩篇51篇 1節~19節

「まことに 私は自分の背きを知っています。私の罪は いつも私の目の前にあります。」
詩篇 51篇3節

詩篇51篇は、ダビデによる悔い改めの祈りです。

神さまの心にかなう者と言われたダビデが、姦淫と殺人の罪を立て続けに犯すことなど、誰が想像できたでしょうか。本人でさえ想像出来なかったことでしょう。私たちは自分では何をしているのかわからないのです。だからその罪を認める前に、隠そうとします。ダビデも同じでした。そしてそれは成功したかのように思えました。しかしナタンにより、自分の罪を悟ったダビデは神さまの前にひれ伏します。自分の罪の前に私は完全に無力であることを悟ったからです。それが詩篇51篇の祈りです。

「そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。」
ルカの福音書 23章34節

私たちは自分の罪があまりよくわかっていません。わかっているようで、自分のこととして認めないのです。反対に神さまに自分の罪を責任転嫁してしまいます。私は弱いからそれでいいんだと納得しようとします。十字架につけられたイエスさまに対して群衆はなおも、あらゆる嘲り、嘲笑(ちょうしょう)、責任転嫁をします。その姿は、実は私たちの姿であります。「私たちは何をしているのかわかっていないのです。」

「罪を悟る」とは、「このイエスを十字架につけたのは私である。」と悟ることです。

「神へのいけにえは 砕かれた霊。打たれ 砕かれた心。神よ あなたはそれを蔑まれません。」
詩篇 51篇17節

ゴルゴタの十字架上で、イエスさまが祈ったことばを聞いて悔い改めた一人の犯罪人は、自分の内にある罪を認め、それにふさわしい報いを受けていることを自認しました。自分を弁護することをやめて、イエスさまにその主権を明け渡しました。もう自分の正しさを主張して生きることをしなくていいのです。これが本質的にイエスさまと出会った者の悔い改めです。愛するみなさん、私たちも同じですね。イエスさまの十字架が自分の罪のためであると受け入れる者は、もう言い訳しなくても大丈夫です。何かに責任を押しつけて自分を守らなくてもいいのです。

きょう、この救いが、あなたのうちに用意されています。イエスさまの十字架の赦しを自分のものとして受け取りましょう。ハレルヤ!

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