「あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」 信仰の父アブラハム 学び第15回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2019.04.21)より。
「創世記」信仰の父アブラハム 学び第15回
 聖書箇所:創世記 16章1節~9節

主の使いは、荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ、「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか」と尋ねた。彼女は答えた。「私の女主人サライのところから逃げているところです。」7節~8節

あなたはどこから来て、どこへ行くのか」この問いかけが、様々な葛藤の中にある一人一人に聖霊さまによって語られますように。

①サライの葛藤。1~3節
サライも当然、神さまがご計画になっている祝福の約束を知っています。
そして、当然自分がその祝福の子どもを産むことと思っていました。
しかし、実際には子どもは与えられない。
この今の現状を見ると神さまの祝福の計画、その直接的な使命から外されているのではないか、と思えて心がふさがってしまいます。
でもこのシーンはサライの不信仰からくるものではないと思います。
主は私が子どもを産めないようにしておられます。」サライは、主権者である神さまを認めています。
神さまが自分の胎を開かなければ、子どもは与えられないということを知っています。
「だからどうか、私の女奴隷を通して子どもを授かってください。」と言うのです。
ある意味でサライは神さまを信じる信仰者として、精一杯の行動に出たのです。
神さまの祝福の計画は、子孫が起こされること。
そしてその祝福が星の数ほど広がることだとサライは知っていました。
その計画を、自分の弱さや、自分のこだわりや、自分のプライドによってとどめてしまうことがないように、それがサライの精一杯の決断でした。
たぶん彼女によって、私はアブラムの子どもの母になれるでしょう。」と。
サライだって本当は、自分を通して神さまの計画がなることを願っていました。
自分の子どもが欲しいし、神さまに用いられたいし、アブラムからの祝福も受けたいと思っています。

私たちも同じような経験があるのではないでしょうか?
神さまのためと思って精一杯の決断をすること、犠牲を払うことがあると思います。
しかし、私たちは神さまの計画をすべて知っているわけではありません。
でもそのシーズンごとに神さまの計画を受け取って歩んでいきます。
時には失敗することもあるだろうし、人間的な判断で決断してしまうこともあります。

でも恐れないでください。
その失敗の中にあっても、神さまの目的が果たされるために、私たちは生かされているのです。
いや、失敗の中にこそ神さまの摂理が現されていくことを悟るのです。
それが信仰者です。ハレルヤ!

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