詩篇73篇の黙想「キリストにはかえられません」

岡崎ホープチャペル発行の週報(2022.3.27)より
聖書箇所:詩篇73篇 1節~28節

「あなたのほかに天では私にだれがいるでしょう。地では私はだれをも望みません。」
詩篇 73篇25節

この詩篇の作者はアサフです。

アサフはダビデの幕屋で仕えた賛美リーダーのひとりですが、ソロモンの神殿においても最高位の立場にある賛美リーダーでした。アサフの葛藤は、熱心な礼拝者であればあるほどぶつかる問題だと思います。彼は、毎日毎日神さまの前で礼拝していました。いつも神さまを慕い求め、神さまの前に賛美をささげていました。神さまを愛し、神さまのために生きたいと願っていました。だからこそ余計に、神さまのきよさの前でどれだけ自分が罪深いのかが顕にされます。こんな私が神さまの臨在の前で仕えることができるのか。。。

でも、この葛藤がアサフを成長させます。

アサフはその心を素直に告白します。 神さまを信じないで、神さまを否定しながら自分勝手に歩んでいる人々の方が、何か豊かに思え、神さまのために人生を捧げ、従おうとしている自分がばからしく感じてしまう。そんな思いを心に抱いたことから、アサフの心は大きくかき乱れます。この不満や妬みからくる自己義を持ったまま礼拝者として立つなら、次世代を、みんなを傷つけてしまう。それがアサフの葛藤でした。妬み、赦せない思いは礼拝者の喜びを覆い、霊的いのちを奪っていきます。その心から解放されるためには、どうしたらいいのでしょうか?

その答えはひとつだけです。

この詩篇72編の分岐点は、17節の「私は、神の聖所に入り」という部分です。これは単に建物としての「聖所に入る」という意味ではなく、神さまの臨在に触れることであり、そこでは自分の義も、人からのことばも、昔の傷も、言い訳も要らないことを経験することです。十字架の前に出て、神さまとの深い安息、親しい交わりを持つことを意味します。

私たちが心から神さまを愛する礼拝者になりたいなら、

聖所に、神さまの臨在の中に入ることから始まります。神さまの前に出ることから、隠れないことから始まります。多くの人が、その葛藤から逃げ、隠れ、離れていきます。もし、その葛藤が葛藤のままで終わってしまうなら、それにはなんの意味もありません。余計に自分を傷つけ、教会から離れていきます。知らず知らずのうちに、神さまのせいにしてしまう。いのちを得るためには、イエスさまの十字架の前に出なくてはいけません。うわべだけでは、イエスさまの十字架の血潮の力があなたのうちに働くことはできないからです。

アサフは、神さまの臨在の中に入っていき安息を受け取ります。私たちも同じように、その安息を味わうなら「キリストにはかえられません」と、心から主をほめたたえる礼拝者として変えられていくのです。ハレルヤ!

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