「救いの達成に努める(聖化の歩み)」完成を目指して:学び第5回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2022.10.2)より
聖書箇所:ピリピ人への手紙 2章12節〜16節

「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。」
ピリピ人への手紙 2章13節~14節

パウロがここで言う「救いの達成」とは、聖化の歩みのことです。簡単に言うなら「イエスさまに似る者として従う」ことです。

①みこころのままに。

そこで、イエスさまに従順するために、「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださる。」と言うのです。私たちの内に、聖霊さまから一つの志、意志が与えられます。私たちの意志に働きかけられた神さまは、その事柄に力を与えて、神さまが聖霊さまを通して私たちに一つの思いを与えてくださり、神さまがその道を開く時、私たちはその導きに従って、志(熱意)を持って自発的に行動することができるのです。その事柄を実際に行うことができるようにしてくださるのです。

ですからクリスチャンの従順は能動的であり、活動的です。神さまが働きかけて、私たちはその働きに乗るために、自我が砕かれて、神さまのなさりたいことの器として整えられていくのです。神さまが与えてくださる思いを大切にしましょう!そして時が来たら従順するのです。

②神さまにつぶやかない。疑わない。

神さまのみこころに従って進んで行く道でも、試練や困難に直面します。神さまのみこころだから、すべてが上手く行くわけではありません。どうして?と思うことも起こります。そして葛藤が起こります。でもそのことによって、みことばに対する飢え渇きが与えられ、みこころが示されていきます。でもつぶやきと疑いは、それら飢え渇きとは違います。ここの「疑う」は、 「理屈を言う」という意味もあります。「やらなければよかった。。。結局神さまなんて。。。あっちの方がいい。もういい、やめた!」となります。私たちがつぶやくとき、神さまへの信頼が疑いへと沈んでいきます。そしてその不信仰は、違うものにより頼む偶像崇拝へと落ちていきます。イスラエルの民が、かつて荒野でエジプトに戻りたいと神さまにつぶやきます。そこで神さまを疑って金の仔牛を造り、偶像を拝むことになります。何も語ることができない置物を拝むのです。

私たちが神さまから離れて行くパターンは、つぶやきから始まります。稀に、神さまにはなんでも言って良いって聞こえるメッセージもありますが、それは神さまに対する信頼があって初めて成り立ちます。つぶやき、疑いには、その信頼がありません。神さまは、私たちが聖化されていく過程において、従順することを望んでおられます。つぶやき、不平を言う前に、神さまに対して素直に「助けてください」と飢え乾き祈りましょう!

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