「いのちを与える安息日」ルカの黙想:学び第9回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2023.4.9)より
聖書箇所:ルカの福音書 6章1節〜11節

イエスさまが収税人や罪人たちと食事の交わりをしたり、

安息日に今までの慣例にない破天荒な行動をとられるので宗教家たちはいてもたってもいられません。イエスさまの「安息日」の言動は、彼らをすっかり怒らせてしまったようです。「安息日」の規定はユダヤ人にとってきわめて重要な問題であり、神さまが「その日を聖なる日とせよ」と言われた命令を実践しようとして、さまざまな規定が定められていました。それほど「安息日」は、彼らのアイデンティティを支えている律法の一つでした。安息日にはしてはならない様々な規定がありましたが、ここでは二つの出来事が記されています。ひとつは「穂を積んで、手で揉みだして食べていた」こと、もうひとつは「いやしの行為をした」ことです。

私たちに安息を与えるためにイエスさまは来て下さいました。

イエスさまは、しばしば自分のことを「人の子」という言い方をしています。それは、イエスさまご自身が神の子としての神的権威を持っている存在であることを、人々に現すために使われた表現です。そしてここで、その「人の子」が「安息日の主である」と明言なさったのです。イエスさまが、安息を与えられる主(メシア)です。安息日は、神さまが私たちのために備えてくださった日です。神さまの安息の中で神さまとゆっくり交わり、喜び、楽しむための日です。神の家族とその恵みを分かち合う日です。命令を守る日でも、人をさばく日でもありません。イエスさまは、私たちにその安息を与えるために来てくださいました。

ルカ19章10節では、その安息日の主であるお方がこの世でなす使命が何であるかをはっきり示しています。「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」
イエスさまは、いつもこの視点から「安息日」を理解しておられます。どんな規則よりも優先されなければならないことがあります。それがいのちに関することです。ですから、イエスさまは律法学者、パリサイ人たちに逆に問いかけています。

「あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それと悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか」

「安息日を聖なる日」とすることは、永遠に変わることのない“神さまの意志”です。

しかし私たちはその神さまの意志を実現しようとして、人々を生かすことよりも律法により人々を束縛してしまい、いのちを与える福音が、いのちを失う宗教になってしまうのです。「人の子は、安息日の主です!」その本質をいつも大切にしましょう。律法ではなく、聖霊さまによって与えられるイエスさまの恵みの中で歩みましょう!ハレルヤ!

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