「十分に訓練を受けた者」ルカの黙想:学び第10回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2023.4.16)より
聖書箇所:ルカの福音書 6章27節〜40節

「弟子は師以上の者ではありません。しかし、だれでも十分に訓練を受ければ、自分の師のようにはなります。」
ルカの福音書 6章40節

ルカの福音書6章27節~38節にはイエスさまが語られた、たくさんの命令が出てきます。

しかしこの文脈の命令をひとことで表すなら、27節でイエスさまが語られた「あなたの敵を愛しなさい」という一語に尽きます。イエスさまは「愛する」ということは、どういう行為なのかを、いろいろな表現を用いて語っておられるのです。さぁ、これらのイエスさまのことばを聞いて、私たちの心に何が引き起こされるでしょうか。ある人は「とてもそのような教えに従うことはできない」と落胆の思いに駆られるでしょう。またある人は「従うことはできない」というよりも、「従いたくない」という強い拒絶を持つ人がいるでしょう。またある人は「私もそういうひとりになりたいと」素直に願い思う人もいるでしょう。

しかし、ここで語られている教えは決して理想的なものではありません。

「できる・できない」「できたらいいな〜」ではなく、この教えは、イエスさまご自身の生き方そのものなのです。そして、そのイエスさまご自身が、私たちもそのような生き方ができるようにと招いておられるのです。ではどうすれば、その様な生き方ができるのでしょうか?
そのヒントはルカの福音書6章39節~40節にあるイエスさまが語られた「たとえ話」にあります。

「いったい、盲人に盲人の手引きができるでしょうか。ふたりとも穴に落ち込まないでしょうか。」(39節)

このたとえ話は、私たちは盲人であり、私たちは目が見える方によって手引きされる必要があることを教えています。その上で

「弟子は師以上の者ではありません。しかし、だれでも十分に訓練を受ければ、自分の師のようにはなります。」
(40節)

と語られます。イエスさまの弟子たちは自分の知恵や力によってではなく、師であるイエスさまの適切な手引きと、十全な訓練によって、師の語っておられる高さにまで成長できるというのです。それが聖霊さまの働きですね。「十分な訓練を受けた者」という訳のギリシャ語は「カタルティゾー」です。それは「直す、(網を)繕う、修繕する、整える、整備する、完全にする、欠点のないものとする、(本来の)姿にする」と言った意味があります。

聖霊さまによる聖化への道、それがイエスさまの弟子になる道なのです。ハレルヤ!

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