岡崎ホープチャペル発行の週報(2023.11.19)より
聖書箇所:ルカの福音書 18章 28節〜43節
永遠のいのちを求める「ある指導者」に対して
イエスさまは「あなたにはまだ欠けたことが一つだけあります。」(22節)と呼びかけます。その指導者は多くの財産をもっていたため、それを捨ててまで永遠のいのちを得ることを断念しました。すると、このやりとりを見ていたペテロは「ご覧ください。私たちは自分の家を捨てて従ってまいりました。」と言って鼻高々になります。確かにその決断は素晴らしいことでした。
しかしイエスさまは、従ってきた弟子たちに対して、自分がこれからエルサレムに向かって行き、異邦人に引き渡され、あざけられ、むちで打たれて殺されるということを語られます。でも弟子たちには「これらのことが何一つわからなかった」とあります。どれぼど熱心に、またどんなに多くの犠牲を払ってイエスさまに従って来たように見えても、弟子たちにはまだ肝心なことが理解できていませんでした。従っているイエスさまご自身のことについて、本質が見えない盲目の状態でした。
「わたしに何をしてほしいのか」
そこで、次の話が続きます。ある盲人が、うわさで聞いたイエスさまが近くを通られることを知り、大声で「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫び出します。それを聞いた弟子たちは彼を黙らせようとしますが、イエスさまは彼を呼び寄せ、そして「わたしに何をしてほしいのか」と尋ねます。すると彼は答えます。
一見、なんでもないストーリーのように思えますが、ルカが伝えたい視点は「解放」です。目の見えない者の目が見えるようになることが解放です。囚人が釈放される、真っ暗な見えない状態から、光の中へ見えるようにされるのがルカが伝えたい福音です。
イエスさまに従うためには「目が開かれる」必要があります。
目が開かれないなら、イエスさまに従って行くことはなかなかできません。一時的にはついて行くことは可能ですが、人生をかけてついて行くことは出来ません。聖霊さまの力によって、霊的な目が開かれて、はじめてイエスさまに従うことができるのです。それがペンテコステの出来事でした。聖霊が臨まれると、弟子たちは目が開かれていき、イエスさまの十字架をはっきりと語るようにされました。賛美が溢れて、感謝が止まらなくなります。そしていのちを懸けてイエスさまに従うように変えられました。
その人はただちに見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て、民はみな神を賛美した。
私たちも何かイエスさまが見えないとき、決断できないとき、従えないときに、イエスさまのあわれみにより頼み「主よ、目が見えるようにしてください。」と祈るべきです。すると必ず、イエスさまの十字架がはっきり見えるようになります。ハレルヤ!