「平安から信仰へと」ルカの黙想:学び第57回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2024.3.24)より
聖書箇所:ルカの福音書 24章 33節〜43節

イエスさまについて知っている事と体験する事には大きな違いがあります

前回はエマオの途上でイエスさまと出会った2人の弟子について分かち合いました。彼らはイエスさまについて知っていたし、話も聞いていたし、自分で説明もしていましたが、一緒に歩んでいるイエスさまに気づきませんでした。しかしイエスさまとの歩んで行くうちに、なにか霊的な飢え乾きが与えられていきます。そしてイエスさまを無理やり泊めさせて、みことばを学び、食事の交わりをしている時、急に彼らの目は開かれてイエスさまを体験します。目が開かれると、今までそばに居たイエスさまの姿が見えなくなります。しかし、もう揺るがない信仰があたえられ、みことばの感動と情熱が、彼らをイエスさまの復活の証人として遣わして行きます。さて、エルサレムに戻り十一人の弟子たちにもイエスさまとの出会いを興奮して話しますが、彼らもまた、イエスさまをまだ体験していません。

「平安があなたがたにあるように。」

エマオの途上で気落ちして歩んでいた2人のように、今度は落胆して落ち込んでいる弟子たちの前に、イエスさまは現れてくださいました。ローマ兵たちに捕らえられていくイエスさまを見捨てた弟子たちですが、イエスさまは彼らを見捨てることはありません。そして弟子たちに向かって言われた第一声は「平安があなたがたにあるように。」です。自分の責めや、言い訳、恐れから解放されるようにと言うのです。彼らの中には恐れと動揺がありました。信じられない心がありました。疑いがありました。弟子たちの責めや恐れは、信じることができないことから出てきます。信仰がないところに希望はありません。希望のない信仰も偽りです。信仰と希望と愛は、三位一体です。

そんな彼らに「平安があるように。」と命じます。暗闇に、光よあれ!と命じると闇は消え去るように、恐れは平安が来ると消えてなくなります。全き愛は、恐れを締め出します。神さまからの平安が来ると恐れが逃げ出し、さっきまで心配していたことが嘘のように消えて行きます。心の暗闇に光が灯って来るのです。そしてイエスさまが与える平安は信仰へとつながっていきます。恐れが消えていくと、疑いも消えていきます。そして信仰が与えられていきます。

「わたしの手や足を見なさい。さわってみなさい。」

彼らに差し出された手と足には、十字架で刺し通された釘の跡が見られたことでしょう。

「彼らは喜びのあまりまだ信じられず」とは

先ほどまでの不信仰とは違います。恐れから来る不信仰ではなく、喜びから来る信仰へと変えられていきます。ハレルヤ!教会が生きているか、死んでいるかは、この違いにあります。一人一人が生きたイエスさまに出会って、イエスさまに触れていただくと、そこに喜びが与えられていきます。そこに信仰が生まれるのです。イエスさまは、私たちに信仰を与えるために来られました。きょう、この平安があなたの内に豊かにありますように。

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