「その名をサライと呼んではならない」 信仰の父アブラハム 学び第19回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2019.05.19)より。
「創世記」信仰の父アブラハム 学び第19回
 聖書箇所:創世記 17章15節~21節

また、神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。」17章15節

①新しい者として。
神さまはアブラハムだけではなく、サライのこともずっと覚えて心に留めておられます。
サライの悲しみを夫以上に考えておられます。
そして言われます。「あなたの妻サライのことだが、」と。改めてあなたとともに歩む妻に目を留めるように呼びかけます。
そして「あなたの妻を新しく見なさい」と言うのです。
あなたがこれまでずっと慣れ親しんで呼びかけてきた「サライ」という呼びかけをやめなさい。
そして、新しく「サラ」と呼びなさいと言われました。

アブラハムにしてみれば、これまでと何ら変わらない自分の妻であり、ずっとこのままだろうと考えていたことでしょう。
しかし神さまの目には「あなたの妻も、神さまの新しい祝福の計画の中にあるよ。」彼女も神さまによって召されて、神さまの恩寵の計画の中に生きる者とされているんだというのです。
サラは祝福であり、「国々の母であり、国々の民の王たちが彼女から出る。」と言われます。
あなたの妻を「王女」と呼びなさいと、新しくされた祝福の器として、主の大きなご計画に生かされている女性として彼女を見よ!言われました。
これが神さまの心です。

アブラハムも、サライ自身も、自分は子どもを生むことができず、神さまの計画を見ることを諦めかけていた。
しかし神さまは、諦めません。
神さまの目には、サライはずっと祝福の対象なのです。
アーメン!

②「サライ」ではなく「サラ」と呼び始める。
17節 。アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」

アブラハムは、神さまのことばにひれ伏しますが、心の中では笑って言います。
「まさかそんな。百歳の者に。。。」でも興味深いことに、アブラハムは応答の時点からすでに「サライ」ではなく「サラ」と呼び始めていることです。
彼の意識の中では「そんな」ですが、でも神さまが「サラ」と言われるなら、自分も「サラ」と呼ばなければならないと考えます。
これが大切です!

現実を見ると不可能に思えて戸惑うこともありますが、私たちがいつも神さまの視点に立ち応答することができますように。

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