「全き者であれ」その② 信仰の父アブラハム 学び第18回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2019.05.12)より。
「創世記」信仰の父アブラハム 学び第18回
 聖書箇所:創世記 17章1節~8節

アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現れ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」

「わたしの前を歩み」
主は、ご自身のことを「全能の神=エル・シャダイ」完全な神だよ、制限のない神だよ、と語りかけられます。
「わたしがあなたを祝福し、あなたに繁栄をもたらすのだよ。だから、あなたはわたしの前を歩み、全き者としてありなさい。」と言われるのです。
「神さまの前を歩む」とはどういうことでしょうか?
分かりやすく言うならば、「わたしの前に、後ろめたさを覚えるような歩みではなく、わたしはあなたのことをすべて知っているのだから、偽らないで出てきなさい。」ということですね。
私たちは、人を欺くことができても、神さまを欺くことはできません。

神さまの臨在の前に出ていくとき、どれだけ自分がちっぽけな者かが明らかにされていき、同時に、そんなちっぽけな私にどれほどの愛を注いでおられるかがわかります。
その時にはじめて、「神の前を歩む」ということの自由さと平安を覚えることとなります。
「全き愛」は、恐れを締め出すからです。

そして続けて「全き者であれ」と言われます。
私たちはよく「ありのままでいい」とか、「そのままでいい」とか言いますよね。
だけど、残念ながら聖書にはその表現はどこにもありません。
「ありのままで」救われるという約束はどこにもないんです。

神さまは言われます。「全き者であれ」と。
イエスさまも言われました。「悔い改めなさい。神の国が近づいたから。」と。
パウロも「心の一新によって自分を変えなさい」と言います。
これは、「方向転換」を意味しています。
確かに神さまは、私たちの弱さをご存知です。
罪の中にあることを知っておられます。
だからと言って、神さまは私たちを諦めてしまうことはありません。
神さまは「ご自分の聖さにあずからせようとして」私たちを取り扱われるのです。

「全き者であれ」とは、いつも完璧にしていなさいと言うことではなくて、たとい弱さがあり、欠点だらけの私であっても「わたしの前に出て、偽りのない信仰をもってわたしに応答する者であれ。」と言われているのです。
これが聖書でいう「ありのまま」です。
神さまが私たちを高価で尊いと見られるのは、神さまの創造の姿である私たちなのです。
悔い改めて、神の前に歩むとき、本当の「ありのまま」の姿でいることが出来るのです。
キリストの似姿に変えられることが、私たちの「ありのまま」の姿です。
ハレルヤ!

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