「信仰が与えられる恵み」その② 信仰の父アブラハム 学び第21回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2019.06.02)より。
「創世記」信仰の父アブラハム 学び第21回
 聖書箇所:創世記 18章1節~15節

サラは「私は笑いませんでした」と言って打ち消した。恐ろしかったのである。しかし主は仰せられた。「いや、確かにあなたは笑った。」18章15節

②「いや、あなたは確かに笑った。」
このことばを聞いてあなたはどのように感じますか。
神さまにさばかれているように思いますか。
サラは、神さまのことばにとっさに、慌てて「私は笑いませんでした。」と嘘をつきます。
とっさに、瞬間的に、自分を守ろうとしてごまかすことが人間の弱さですね。

確かに神さまは、信仰を働かせることのできないサラに対し、そのことを認めるように指摘しました。
しかし、その目的はサラを責めるためではなく立たせるためです。
責めるのではなく、聖書は「恐ろしかった」からであるとその心を解説してくれています。
聖書を書かれた聖霊さまが、サラを優しく弁明するかのようです。
それはちょうどペテロがイエスさまを3度否んだ時のように、恐ろしくて、瞬間的に否定してしまったようにです。
でもその時のイエスさまのまなざしを私たちは知っています。
それはペテロを哀れみ、彼が立ち返った姿を見るイエスさまの優しい眼差しです。

同じように、新約聖書もサラを責めてはいません。
「信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。」
(ヘブル人への手紙11章11節)

サラも現実を生きる人として、迷いの中にありましたが、それでも神さまを真実な方と考えました、と説明されています。
その信仰は、聞いてすぐ与えられたものではありません。
最初は笑ったけど、後に信仰を働かせたのです。
真実な方だと考えるようにされたのです。ハレルヤ!
そして、その信仰をも神さまが与えてくださるのです。

愛するみなさん、信仰を与えられるということは、本当にしあわせなことです。
信じることのできなかった私に、からし種ほどの信仰を与えてくださって、成長させてくださる。
私の人生に信仰を与えてくださるのも、完成してくださるのもイエスさまだけです。
恵みを恵みとして受け取れない私たちに、神さまの方から近づいて来て、恵みを見せてくださいます。
サラ、あなたの喜ぶ顔が見たい!そんな神さまとの交わりの中に、私たちも入っていきましょう。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする