「信仰の型」

岡崎ホープチャペル発行の週報(2019.09.08)より
聖書箇所:へブル人への手紙 11章1節

「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」

へブル人への手紙11章1節には信仰の定義が記されています。
その定義はとてもシンプルですが、非常にダイナミックであり、生きたものです。
「信仰は、望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」アーメン!

ではここで言われている「望んでいる事柄」とはいったい何のことでしょうか。
私たちがそれぞれ自分勝手に思い望んでいることでしょうか。
「こうしたい、ああしたい、これがほしい、あれがほしい、こうであったらいいのに」という類のことでしょうか。
これが信仰の定義だとすれば「いわしの頭も信心から」となんら変わりません。
それは聖書のいう信仰ではなく、私たちの自分勝手な利己的な願望です。
もし信仰が私たちの信じる力にかかっているなら、それは何と崩れやすく、もろいものでしょうか。

ここでいう「望んでいる事柄」とは、神さまがアブラハムに対して語られた約束を意味します。
なぜなら、アブラハムは神さまの語られた約束を信じて望みを抱いたわけですから、神さまの約束こそがアブラハムにとっての「望んでいる事柄」です。
そして「望んでいる事柄」と「目に見えないもの」とは同義であります。

私たちの「望んでいる事柄」とは、大方「目に見えるもの」です。
つまり自分の生活、あるいは自分の人生の中で実現されるような事柄を考えてしまいます。
「望んでいること」と同じように、もし私たちが目に見えることだけを信じているなら、それは一時的ではかないものです。
イスラエルの民も多くの奇跡を見ましたが、その奇跡が終わると途端に信仰が失われていきます。

信仰とは、私たちが自己実現するための手段ではありませんし、自分の願っている目標を達成するための手段でもありません。
信仰は、この世的な成功、勝利を得るための道具でもないのです。
信仰とはいまだ目に見えない神さまの約束に対して、アブラハムのようにどこまでもみことばに信頼して生きることです。
アブラハムはこの「型」を私たちに示してくれた信仰の父なのです。

自分の人生においてひたすら神さまの約束の中に生きること、そこにいつも自分の身を置くことこそ信仰の型であり、信仰者の歩みですね。ハレルヤ!

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