心配無用?

信望愛(Okazaki Hope Chapel Monthly Bulletin)2020年3月号より

「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」マタイの福音書 6章27、34節

イエスさまは山の上で弟子たちにみことばを教えられました。この箇所(25~34節)でイエスさまは、何度も「心配するな」と語られます。
ここでイエスさまが言われる「心配するな」とは、「心配はいっさいしてはいけない」という意味ではありません。「心配」には「必要な心配」と「不必要な心配」があります。

「心配」とは「心を配る」と書きますが、私たちがいろいろなことに心を配ることや、配慮することは日本人の長所であり、必要な心配り(こころくばり)です。でも、「イエスさまが『明日のことは心配するな』と言われたから、何の心配りも、準備も必要ない」と考えたとしたら、それは無責任なだけでイエスさまの願いとは異なります。イエスさまは、私たちが無思慮で、無責任に、無分別な行動をすることを望んでおられません。将来の計画を全く立てずにその日暮らしをすることを良しとはされません。

では、イエスさまが「心配無用」と言われる「心配」とは、どのようなことなのでしょうか?
それは、私たちを恐れや不安で縛り、喜びや自由、希望を奪ってしまうような「思い煩い」のことです。思い煩いは、人の考えを必ず否定的にします。そして、恐れや不安で縛られた思い煩いによって、正しい判断が出来なくなることがあります。今世界的な問題はコロナウイルスの感染ですね。その対策として配慮し、心を配ることは良いことです。でも過剰に反応し、恐れや不安で人々の心を縛ってはいけません。私たちクリスチャンは、神さまの祝福と癒しを宣言する者であり、様々な決断をするリーダーたちのためにとりなし祈る者です。「心配しなくていいよ!」と神さまに目を向けさせ、不安を和らげる者でありたいですね。

イエスさまは、「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」と言われました。それは、「明日のことを心配しすぎて、神さまから与えられた今日という日を、喜んで生きることが出来なくなることがないように」ということです。労苦も喜びもその日その日にあり、今この瞬間を大切に生きていきなさいということです。

「あなたがたのいのちはいったいどのようなものですか。あなたがたはしばらくの間現れて、それから消えてしまう霧にすぎません。むしろ、あなたがたはこう言うべきです。『主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。』」
ヤコブ書4章14~15節
ハレルヤ。アーメン。

牧師 佐藤耕二

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする