「義に飢え渇く者は幸いです」幸福な人生の条件 その4

岡崎ホープチャペル発行の週報(2020.03.01)より
聖書箇所:マタイの福音書 5章6節

「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。」

霊において貧しくなり、神さまだけにより頼む者とされた者。それゆえ神さまの悲しみを知る者とされた者。その者は新しい性質であるイエスの柔和さ、練られた品性が建て上げられていきます。自我から解放されていく時、それは弱々しく、みじめに見えるかもしれませんが、そのことにより仕える者として来られ、自ら十字架にかかられたイエスさまの本物の強さが建て上げられていきます。「幸福な人の条件」その4番目は、「神さまの義に飢え渇き、その義を獲得する」ことにあります。

①神さまの義に飢え渇く
神さまとの生きた関係を、自らの義の行いで得ることは100%不可能です。イエスさまは言われました。「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。」マタイの福音書 5章20節
山上の垂訓はユダヤ人のイエスさまが、ユダヤ人に対して語っている箇所です。そもそも異邦人の私たちが、パリサイ人の義に勝ることができますか?どれだけ自分の努力により自分の義の行いを全うしても、神さまの義に近づくことはできません。そこには、絶えず「自分の義の基準」で自分を誇り、他を裁いてしまうからです。山上の垂訓は、自分たちの義の努力で成し遂げれられるようなものではありません。

「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。」ピリピ人への手紙 3章8~9節

そこには私たちの行いによって掴み取れるものは一切ありません。「神の義を受け取る、獲得する」には、イエスさまの十字架による赦しと恵みの豊かさを知るしか方法はありません。幸いな者の条件は、「自分の努力で掴むもの」ではなく、「飢え渇く者に与えられる」特権です。自分の義の行いによって得ようとすることが宗教です。宗教では神の国に入ることはできないとイエスさまは言うのです。神の義は、すべては神さまの一方的な犠牲、恩寵です。神の義は、ただ信じる者に恵みによって与えられるのです。これが福音です!

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