自分たちの町に帰る エズラ記3

信望愛(Okazaki Hope Chapel Monthly Bulletin)2022年5月号より

「しかし、祭司、レビ人、一族のかしらたちのうち、以前の宮を見たことのある多くの老人たちは、目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた。一方、ほかの多くの人々は喜びにあふれて声を張り上げた。」
エズラ記 3:12

年度が変わり、新しいシーズンに入って少し経ちました。環境の変化などがある中、みなさんはお元気でしょうか。想像していたことと違った!ということもあると思います。期待通りにならなかったという経験は誰しもがあるものです。エズラ記は、私たち人間が神さまではなく、どうしても人や目に見えるものに期待してしまう性質を持っていることを明らかにしています。
そして、それでも神さまに期待することの大切さを訴えています。

エズラ記3章10節で、ついに神殿の基礎が完成します。預言通りであり、神さまのご計画が必ず実現されることを彼らは目の当たりにします。続く11節で彼らは工事が無事に進んでいることの感謝を主にささげます。11節後半「主の宮の礎が据えられたので、民はみな主を賛美して大声で叫んだ。」

ここで聖書あるあるの「しかし」が登場します。大声は歓喜だけでなく、嘆きもあったと聖書は記しています。歓喜の声をあげているのは、以前の神殿を知らずに生まれ、捕囚の地で育った人々です。嘆きの声をあげているのは捕囚される前から生きていた人々、つまりソロモンの神殿が壊されてしまうのを身をもって経験している人たちや、以前の神殿を知っている人々です。

今回据えられた神殿の基礎は、以前のものとは比べものにならないほど貧相なものだったのです。前の神殿の大きさ、主の栄光が満ちているを知っている彼らは、相当ショックを受けたでしょう。そのため喜びの叫び声と混ざってわからないほどの嗚咽と号泣をしているのです。自分たちが神さまの声に耳を傾けていたら、あの時、神さまの方を選んでいたら、目に見えるものにではなく、神さまに期待をしていたらと、自分たちの罪が照らされたのです。

この後の彼らの心情は書かれていませんが、この嘆きの声と涙は、悔い改めに進むためのスタート地点に立ったからこそ溢れでてくるのではないでしょうか。
嘆きは喜びに変えられます。彼らのように悔い改めの道のりを進むとき、主に期待を寄せる者に変えられていきます。

伝道師 深谷さおり

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