「私に必要な霊的成長 その2」完成を目指して:学び第10回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2022.11.06)より
聖書箇所:ピリピ人への手紙 4章11節〜13節

「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。」
ピリピ人への手紙 4章11節~12節

パウロは、どんな境遇にあっても満ち足りていることを学びました。

私たちは、人の評価、人の目が気になってしまう。最近の若者たちの傾向は、フォロワー数の数や「いいね」の数に一喜一憂する傾向があります。「相対評価」= 人からの評価で自分の存在価値を満たそうとしてしまう人たちが増えてきているようです。しかしパウロは、どんな境遇にあっても満ち足りていることを学びました。それは、外から入ってくるものの満足ではなく、内からの充足でした。乏しくても、富んでいても変わらない内側から溢れる充足です。

パウロは、初めからそれができたのではありません。

いろんな境遇を経て学んだのです!過酷な試練を経験したり、主の模範に従うことを迫られたり、あきらめそうになるとき個人的な主との出会いを体験したり、主の備えを身をもって味わいます。そのことを通して得たパウロの確信は、「私を強くし続けてくださる方によって」、すなわち「良い働きを始められた方が、私を完成へと導いてくれる」という主に対する信頼です。そこから自己充足が湧いてきます。

そのためには、中途半端な見せかけの自分を捨てる必要があります。リアルに神さまの前に出て、神さまと向き合う必要があります。聖なる方の前に、罪を自覚したまま、それでもいいやと妥協して神さまの前に出ているなら、本当の充足を味わうことはできません。本当の愛を知ったなら姦淫の罪を持ったままでは、その愛する方の前に出ることは辛いのです。

私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

以前の私は、いつも神さまの前で責められているように感じていました。仮面をつけている自分がいたからです。神さまの前で自由がなかった。だからクリスチャンの交わりにいるよりは、ノンクリスチャンの交わりの方が楽で、本当の自分が出せると思っていた。ソドムの中でなら、自分の罪の葛藤が少し薄れるような感じがして楽だったのかもしれません。でも、私の内に住んでおられる聖霊さまがいつも泣いているのが分かりました。この世の快楽で、都合の良い充足を少しは創り出せるかもしれませんが、そこには本当の平安はありません。あなたが救われているなら、その充足では満足できないのです。なぜなら、本当の平安を知っているからです。

「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」
ピリピ人への手紙 4章13節

もう一度、あなたに与えられている聖霊さまによる平安を意識してみましょう。

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