「祈りの深さ」ルカの黙想:学び第49回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2024.1.28)より
聖書箇所:ルカの福音書 22章 39節〜53節

「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」
ルカの福音書 22章42節

イエスさまは「いつものように」神さまとの交わりを持つために

オリーブ山に祈りに行きます。祈りのために、いつも時間と場所を確保します。でも、この日の祈りはイエスさまにとって特別なものとなりました。いつものように「父よ」と呼びかけますが、その祈りは苦しみ、もだえながら祈る「戦い」でした。十字架を前にして、イエスさまは死ぬのが恐かったのでしょうか。人々の裏切りが赦せなかったのでしょうか。みこころに従うのが嫌だったのでしょうか。。。いや、そんな事はありません。イエスさまが格闘した「この杯」を取り去ってくださいという「杯」は、神さまの「さばき」のことであり、天のお父さんとの断裂のことです。神の子であるイエスさまが、愛する父なる神さまから完全に見離され罪ある者としてさばきを受ける苦しみです。イエスさまはその杯を取り除いて欲しいと祈りますが、でも、わたしの願いではなく、あなたのみこころがなりますようにと祈っているのです。

「みこころ」がなるようにとは

すべてのことが神さまの権威のうちにあることを認めている祈りです。自分の願いより、神さまの願われることを尊重してそれを受け入れるという決意です。それは願いではなく、私たちの決意によることです。そのことを受け取りますと祈るとき、そこに格闘があるのです。そのために御使いがイエスさまを力づけたとあります。今は、私たちにも聖霊さまが励まし、力づけてくださいます。そして、共に祈る神の家族を通して力を受けるのです。

イエスさまが弟子たちに与えられた最後のレッスンが「祈り」でした。

その課題は「誘惑に陥らないように祈りなさい」です。祈りは戦いだからです。誘惑が絶えず私たちをふるいにかけるから、何とかして神さまの愛の中で安息することを邪魔しようと、サタンがちょっかいを出してくるからです。私たちの罪の性質は「自分の欲」です。この欲を治めなければ、すぐに誘惑に負けてしまいます。

「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言えば、人を欺く情欲によって腐敗していく古い人を、あなたがたが脱ぎ捨てること、また、あなたがたが霊と心において新しくされ続け、真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着ることでした。」
エペソ人への手紙4章22節~24節

祈りはイエスさまを身につけることです。それしか誘惑に打ち勝つことはできません。みこころを受け入れたイエスさまは、敵を愛し、私たちを赦し、十字架の道に従います。愛するみなさん、祈りは私たちが生きる道であり、誘惑に打ち勝ち、試練に耐え、みこころに従う道です。その道には必ず勝利が与えられます。祈りの深みを知る者でありましょう。ハレルヤ!

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