いのちの書 = 最期のさばきの基準

信望愛(Okazaki Hope Chapel Monthly Bulletin)2020年9月号より

勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。またわたしは、その者の名をいのちの書から決して消しはしない。わたしはその名を、わたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。
黙示録3章5節

また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。
黙示録20章12節

黙示録20章には、千年王国の啓示が記されています。そして千年王国の後、永遠の御国に入る前に行われる白い御座のさばきのシーンが出てきます。それは、イエスさまを救い主として受け入れないで死んだ人たちに対する最後のさばきのことです。

そこでのさばきの基準は、「自分の行い応じて」さばかれたとあります。その「行い」の中には、当然「悪い行い」もありますが、人が「これをすれば神さまに受け入れてもらえる」という間違った考えに基づく「良い行い」も含まれています。

罪人である人間がいくら多くの良い行いをしたとしても、神さまの完全な義の前には全く意味がありません。自分の義をもって神さまの前に出る人は、誰ひとり神さまに受け入れられることはありません。このさばきは、そのことを明らかにするためのさばきです。

一方、イエスさまを救い主として信じた人々には、信じた瞬間から神さまの義がプレゼントされています! 神さまの完全な義がその人を覆っているので、その義のゆえに神さまのさばきを受けることはありません。それがイエスキリストの十字架の恵みです。

人が神さまの前に出る方法は、自分の正しさを持って出るのか、神さまの正しさを持って出るのかのどちらかです。自分の正しさを持って出る人は全員退けられ、神さまの正しさを持って出る人は全員受け入れられます。

神さまのさばきの基準は、その人がどれだけ良い行いをしたかによってではなく、神さまの義を受け取っているかどうかにかかっているのです。神さまの義を受け取っている者はすべて、いのちの書にその名が記されてあります。一度そのいのちの書に名前が記されたら、決して消されることはないと、イエスさまご自身が保証してくださっています。何という恵みでしょうか。
だからこそ、私たちにはやるべき使命があるのです。ハレルヤ!

牧師 佐藤耕二

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