「宝のあるところに心もある」ルカの黙想:学び第27回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2023.8.13)より
聖書箇所:ルカの福音書 12章22節〜34節

「自分の財産を売って施しをしなさい。自分のために、天に、すり切れない財布を作り、尽きることのない宝を積みなさい。天では盗人が近寄ることも、虫が食い荒らすこともありません。あなたがたの宝のあるところ、そこにあなたがたの心もあるのです。」33〜34節。

「自分の財産を売って施しをしなさい」

このことばが語られた文脈を無視して、この一節だけ読むと、何か人間的な慈善や施しが、天に宝を積む方法だと勘違いしてしまいます。するといろいろな葛藤が起こり、善行を積まないといけないという義務になってきます。しかし今回のテーマも、前回からのテーマの続きです。ここで言わんとしているのも、いのちの泉(ゾーエー)から溢れる喜びを持って、たましい(プシュケー)の必要を蓄えることです。

「何を食べたらよいか、何を飲んだらよいかと、心配するのをやめ、気をもむのをやめなさい。」29節。

「むしろ、あなたがたは御国を求めなさい。そうすれば、これらのものはそれに加えて与えられます。」31節。

天の御国は、永遠のいのち(ゾーエー)が溢れる所です。

しかし私たちは、たましい(プシュケー)を満たすものばかり求めてしまいます。金銭があることで安心や保障が満たされると思い、金銭に貪欲になったり、物欲に囚われたりします。でもそこには、本当のいのちはありません。イエスさまが与えてくれるいのちは、この世の財産によって豊かにすることはできないし、この世の富にそんな力もありません。だから、その霊的いのちの祝福をまず求めなさいと言うのです。たましいの満たしは、神の国を求め続ける者に神さまが保証して下さると言うのです。神の国を求め続けるならば、私たちの肉体や感情が必要とするたましいの満たしは、付録として加えて与えられると言うのです。

もし、自分を根源的に潤してくれるいのち(ゾーエー)が満ちていないのに、人に善意を注ごうとしても、それには見返りや、義務、人からの賞賛など、この世のものに執着してしまいます。だから私たちの心と私たちの宝が、真のいのち=イエスさまで満たされている必要があるのです。宝のあるところに心もあり、その心によって天に宝を積むことができるのです。ハレルヤ!

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