「イエスさまの涙を我が内に」ルカの黙想:学び第44回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2023.12.10)より
聖書箇所:ルカの福音書 19章 41節〜46節

「エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。」
ルカの福音書 19章41節

ろばの子を差し出す人々、

上着を脱いで道端に敷く人々、イエスさまを王としてほめたたえる人々のワーシップによってイエスさまはエルサレムに入城されますが、その都エルサレムを見てイエスさまは悲しみの涙を流されます。天の父が愛され、いつも父の心の中心にあったエルサレムが、やがて崩されてしまうことを知っているので悲しまれます。これまでも多くの預言者たちを遣わし、メシヤの到来に備えるように伝えてきましたが、なかなか悟ることができず、今まさに平和の王として来られたイエスさまを拒んでしまうイスラエルの人々。人々の目には、今は完全で壮大に見えるその城壁と都が、もうすぐローマ軍によって崩されてしまう。それも「一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。」と言われるほど、徹底的に破壊されます。

エルサレムとは、神さまの平和がある所です。

エルサレムは、まさに神のシャロームが満ちた場所であるはずですが、人々はそこを「強盗の巣」にしたと言うのです。「わたしの家」=「神さまの臨在される都」、香と燭台、供えのパンがある場所、祈りとみことば、ワーシップが捧げられる場所が、自分たちの肉の欲、見せかけの平和を建て上げる場所になっていたのです。平和を最も必要とする都が、その平和の君を拒みました。

今の時代、私たちも再び来られる「神の訪れの時」を悟る必要があります。

この方によって世界は造られたのに、世はこの方を知らない。私たちの救いのために来られたのに、人々はこの方を受け入れようとしない。神さまは平和を望んでおられるのに、世は平和の君を受け入れようとしない。そして「なぜ神さまがいるなら」と自分の罪を認めようとしない時代。そのような時代にあって、再び来られるイエスさまをお迎えするのが花嫁なる教会です。イエスさまの涙を、私たちの涙として祈る者たち。私たちの町に対するあわれみの心をもって、とりにし祈る者が花嫁なる教会の姿です。私たちはすでにこの平和を受け取っています。それは失うことはありません。だからこそ「神の訪れの時」を悟り、希望を持って、平和の福音を伝える者でありたい。涙を流しつつ、それでも私たちのために十字架の救いを成し遂げられたイエスさまの愛を伝える者でありましょう。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする