「わたしの心をあげよう」ルカの黙想:学び第6回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2023.3.19)より
聖書箇所:ルカの福音書 5章12節〜16節

「主よ。お心一つで、私をきよくすることがおできになります。」

ルカの福音書5章12節からのストーリーでは、全身重い皮膚病にかかった人がイエスと出会ってきよめられるという出来事が記されています。「全身ツァラアトに冒された」ということは、何らかの皮膚病が全体を覆っていることを意味します。当時のユダヤでは旧約聖書の規定によって、ツァラアトが病気というよりは、神に対する“汚れ”として定められていました。社会的にも、宗教的にも汚れた者と見られ、隔離されていた存在でした。(レビ記 13:45~46)

ここで、このツァラアトに冒された人がイエスさまに求めた“きよさ”とは、どういうことだったのでしょうか?当然、実際的な病の癒しもあったでしょう。イエスさまの力によってツァラアトが癒されることを信じてここに来たでしょう。しかしこの人は、「主よ。お心一つで、私を“きよく”することがおできになります。」と言っています。「私を癒してください」とは言っていません。

彼は「きよさ」を求めました。ここで言う“きよさ”とは、「神に近づくことができる、礼拝できる、礼拝に用いられる」という意味の“きよさ”です。逆に“汚れ”とは、神に近づくことができない、礼拝できないという意味です。しかもレビ記13:13の規定でいくと、彼は全身にツァラアトが覆っていたので、もう祭司からきよめを宣言してもらえる状態にありました。祭司の所へ行き、自分のからだを見せれば、きよい身分として認可される状態にありました。

「わたしの心だ。きよくなれ」

しかし彼はイエスさまのところに来ました。イエスさまの“きよさ”を求めました。イエスさまの前でひれ伏して求めているのです。そんな彼にイエスさまは語りかけられます。
イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐにツァラアトが消えた。」

罪深くて神さまに近づくことのできなかった私、いやむしろ自分から神さまに背を向けていた私、クリスチャンの輪の中に入ることが嫌いだった私、そんな私に、イエスさまは「わたしは願っているんだ。わたしの心をあげよう。きよくなりなさい。」と言われるのです。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。イエスさまの心は、私たちがきよめられて、神さまに近づくことができるようになることです。それが礼拝者とされるという恵みです。ハレルヤ!

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