「契約と信仰と祝福」 信仰の父アブラハム 学び第32回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2019.08.18)より。
「創世記」信仰の父アブラハム 学び第32回
 聖書箇所:創世記 22章14節~19節

それから主の使いは、再び天からアブラハムを呼んで、
仰せられた。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、」
(創世記22章15節-16節)

最終試験にパスしたアブラハムに、再度、神さまはご自身の契約を表明してくだいます。
神さまの契約の素晴らしさを確認し、私たちの信仰が確かなものとなることを期待します。

①「わたしは自分にかけて誓う」
契約とは、当事者同士で結ぶ約束のこと。お互いの権利・義務に関して、法的拘束力を持つものです。
神さまとアブラハムが交わした契約についてもう一度確認したいと思います。これがとても重要だからです。
創世記 15章。契約を結ぶ者同士が「裂かれた動物の間を通り過ぎる」ことによって契約を結ぶという当時の慣習があったようです。
「切り裂かれたものの間を通り過ぎる」という行為も、もし約束を破ったならば、このように身を裂かれても致し方ありません、というほどの堅い約束を示しています。
「さて、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。」
「煙の立つかまどと、燃えているたいまつ」これは、神さまの臨在を象徴しています。
これが「切り裂かれたものの間を通り過ぎた」ということです。
神さまとアブラハムが交わした契約ですが、切り裂かれたものの間を通り過ぎたのはなんと神さまだけでした。
つまり、契約の当事者である神さまだけが、一方的に裂かれた物の間を通り過ぎられます。
契約の両者ではありません。
アブラムは深い眠りの中にいるのです。
約束を破るならいのちの代価が支払われなければなりません。
その契約に神さまご自身だけが通られたのです。
契約違反の責任を神さまだけが取ろうとされたのです。

ですから、この契約は双方的なものではなく、神さまの一方的な契約です。
アブラハムの義務については一切語られていないのです。
以後、アブラムがどれほどの罪を犯したとしても、この契約が破棄されることはありません。
それは神が聖であり、忠実、真実な方だからです。
この契約は、アブラムとの永遠の契約です。
みなさん、これが神さまの一方的な契約です。
そしてその契約が、十字架で切り裂かれたイエスさまを通して成就するのです。
私たちは、その驚くばかりの恵みの中に生かされていることを覚えて感謝するものです。

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