「走るべき行程」使徒の働き 学び第34回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2020.12.20)より
聖書箇所:使徒の働き 20章17節~24節

「ただわかっているのは、聖霊がどの町でも私にはっきりとあかしされて、なわめと苦しみが私を待っていると言われることです。
けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。」使徒の働き 20章23~24節

パウロは、謙遜と涙をもって神さまと教会に仕えました。

彼は、世で誇れるものをたくさん持っていました。そのどれをとっても、人から劣るものはありませんでした。しかし、パウロはイエスさまと出会ってから、それまで誇っていたものを捨てて教会に仕えるようになりました。教会に君臨するのではなく、謙遜の限りを尽くして教会に仕え、教会のために涙を流します。彼がどれほどイエスさまを愛し、そして教会を愛していたのかが分かります。

パウロは、いつも神さまの使命に応答しました。使命を捨てれば、苦しみを避けることもできました。しかしパウロは神さまに従順して、苦しみを受ける道を選んでいきます。エペソの長老たちがいくら引き止めても、パウロ自身の献身と決断は変わりません。良いことだけが起こるのを願っているなら、苦しみを通ることが告げられたとき、私たちは神さまに従うことは難しいかもしれません。苦しむこと自体は決して喜ばしいことではありませんが、その中に注がれる神さまの平安と喜びを私たちが知るとき、その試練をも耐えることができるのです。

「いま私は、心を縛られて」…「聖霊に捉えられて」

パウロを導かれたのは、いつも聖霊さまでした。どんな苦しみが待っていたとしても従おうと決心することができたのは、神さまがいつも聖霊さまによって私たちの心を強めてくださり、励ましてくださり、導いてくださるからです。たとえ「なわめと苦しみが私を待っている」としても、イエスさまがともにいてくださり、その苦しみをも担ってくださることを知っているから、従うことができました。

パウロは「自分の走るべき行程を走り尽くし」「イエスさまから受けた、神さまの恵みの福音をあかしする任務を果たし終えること」ができると告白します。それがパウロの生きる意味でした。パウロは聖霊さまの導きと神さまから受けた使命に従って、自分の人生を生きました。
神さまに与えられた使命のために生きる人生こそ、本当に幸せであることをパウロは伝えたいのです。その生き方はいのちをかける価値があると、自分の人生をささげても、少しも惜しいとは思わないというのです!ハレルヤ!私たちもそのように生きたいですね。

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