「エマオでの体験がありますように」ルカの黙想:学び第56回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2024.3.17)より
聖書箇所:ルカの福音書 24章 13節〜33節

「しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。」

この日は、過越の祭りが終わったばかりなので、他にも多くのユダヤ人たちが故郷に帰るために歩いていたことでしょう。イエスさまは、落胆した二人の弟子に近づいてくださって寄り添います。心が落ち込んで、私たちがさまよい歩くとき、イエスさまご自身が私たちを、ご自分のもとに引き寄せようと声をかけてくださいます。

イエスさまは目の前におられるのですが、信仰の目がさえぎられていて彼らには見えないのです。私たちも希望を失い、これから行くべき方向がわからなくなるとき、神さまが少し離れてしまったように感じることがあります。しかし、真理は逆です。私たちが信じれなくて神さまから離れて行こうとするとき、神さまはいつも近づいて来てくださるのです。イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」イエスさまはユーモアがありますね。自分のことに気づかない2人に対して、自分のことを聞きかれます。

「すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。」

暗い顔つきになって立ち止まる。これが十字架だけで終わっている人の姿です。復活の朝が明けましたが、彼らは依然として暗い感情の中に閉じ込められていました。ここから、彼らのイエスさまに対する見解が述べられていきます。彼らはイエスさまの復活について、女たちの証言と、弟子たちの証言があったのにもかかわらず、まだ信じていませんでした。私たちもイエスさまを信じていると言いますが、しかし、実際の生活においてどのように信じているかは、みなあまり理解していません。自分が信じれる範囲だけで信じようとしています。

「それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。」

イエスさまご自身が、ご自分について聖書全体から講解メッセージをされているのです。イエスさまから直接、旧約概論を学べるとはなんと言う恵みでしょうか。今の時代は聖霊さまによってそのことを体験しています。最初はイエスさまの方から近づいてくださいましたが、今度は彼らの方から無理にでも一緒に泊まってくださるように願います。みことばの飢え乾きが与えられていきます。信仰が与えられていきます。

「すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」

彼らの目が開かれると、イエスさまはもう見えるかたちでおられる必要はなくなりました。彼らが信じた今、見える方をもう必要としないのです。見ないでも、もうその信仰は揺るぎないものとなった。イエスさまの復活がわかれば、信仰と希望と愛は、決して絶えることはありません。その確信は日々聖霊さまによって与えられます。ハレルヤ!

あなたの人生に、このエマオでの体験がありますように。

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