岡崎ホープチャペル発行の週報(2019.11.03)より
雅歌の学び 第8回
聖書箇所:雅歌 2章16節~3章5節
「私は、夜、床についても、私の愛している人を捜していました。私が捜しても、あの方は見あたりませんでした。」3章1節
新しいシーズンに対する主の呼びかけに、花嫁は「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの」と告白しながらも、立って出て行くことができなかった。
そしてある夜、幻を見て主の臨在が取り去られて行くように感じる。
「夜」は複数形で、夜毎に不安がつのる様子がうかがえます。
そのような中で、花嫁は愛する方を探し求めます。呼び求めます。
「さあ、起きて、、、探して来よう。」花嫁は目覚めました。起きて探しに行くのです。
詩篇13篇でダビデもこのように歌っています。1~2節。
「主よ。いつまでですか。」「いつまで御顔を私からお隠しになるのですか。」
ダビデは、絶望的な心と苦しみの中で、いつまで神さまはこのように私を放って置かれるのかと呼びかけます。
ときに神さまは、子どもが成長するようにと、愛のあるしつけのシーズンを経験することを良しとされます。
その時は苦しいですが、そのことにより、私たちが主を呼び求めるようになります。
この経験により、私たちは神の子どもとして成長していくのです。
ここでは、花嫁が4度も花婿を「探して」と呼び求めます。
神さまが自分の近くにおられず、御顔(臨在)を隠されたように感じましたが、なおも神さまを慕い求めます。
花嫁は「私の」愛している人と呼びかけます。
神さまと自分との深い関係、親密感、これが愛の関係ですね。
イエスさまの十字架も「私の」ためです。
「私の愛している人を私は見つけました。この方をしっかりつかまえて、放さず、とうとう、私の母の家に、私をみごもった人の奥の間に、お連れしました。」4節
目覚めた花嫁は、この臨在を取り戻します。
もう離さない!しっかり握りしめている様子です。
今まで分からなかった、新しい主との関係を取り戻していくかのようです。
4節にある「母」はヘブル語で「エーム」(אֵם)です。
この言葉は「分岐点」「出発点」をも意味します。
「母」は花婿と花嫁の出合った出発点「初めの愛」を意味しているようにも取れます。
私たちも、いつもこの愛の中にとどまるとき、本当の自分を受け入れ喜ぶことができます。ハレルヤ!