「今まで通ったことがない道」ヨシュア記の学び 第5回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2024.5.5)より
聖書箇所:ヨシュア記 3章 1節〜17節

神さまが導く40年の荒野の旅路を終えて

イスラエルの民がとうとう約束の地に入っていくシーンです。神さまが言う「今まで通ったことがない道」とは、ヨルダン川を渡る道です。その道を経験するために、ヨシュアはイスラエルの民をヨルダン川の川岸で3日間宿営させ、準備しました。

「あなたがたは自らを聖別しなさい。明日、主があなたがたのただ中で不思議を行われるから。」

私たちの人生のただ中に神さまの不思議が行われていくためには、私たちの身をきよめる必要があります。聖別する(カーダシュ)とは、特別に神さまのものとして「取り分けられる」ことです。イスラエルの民は、神さまに特別に取り分けられた民としてきよさが求められました。それはエジプトから取り出され、区別され、すでに神さまのものとして特別に扱われていることを認識することです。私たちが今まで通ったことがない道を歩んで行くためには、この聖別が必要です。私たちは今、イエス・キリストの十字架の贖いによって罪からきよめられていることを知る必要があります。いつもイエスさまの十字架の前に出るのです。

「契約の箱を担ぎ、民の先頭に立って渡りなさい」

聖なる戦いの最前列に、神さまの臨在に仕える祭司たちが進みます。本来は突破するために強靭な勇士(兵士)たちがいるべき場所に、礼拝者たちが立っているのです。礼拝者たちが先頭に立って民を導くのです。これからイスラエルの民が戦う戦いは、神さまがともにおられる聖なる戦いです。聖なる戦いの勝敗は、神さまの臨在にかかっています。だから、神さまの臨在が先頭に行くのです。ハレルヤ!

「箱を担ぐ者たちがヨルダン川まで来たとき、ヨルダン川は刈り入れの期間中で、どこの川岸にも水があふれていた。ところが、箱を担ぐ祭司たちの足が水際の水に浸ると、」

イスラエルの民が葦の海を渡ったとき、モーセが杖をかざすと海が分かれ、乾いた地が開かれました。彼らは、その乾いた道を通って行きました。それは恵みの道です。しかしヨルダン川を渡る場合は違います。刈り入れの期間中、ちょうどイスラエルの雨季の時期である3~4月ごろ、雨季のため川岸に水があふれかえっていた、その激しい流れの中に入っていくのです。その道は、ただ信仰によって生まれるのです。すでに乾いた道に踏み出すことは、信仰がなくてもできます。しかし、まだ開けていない激流の中に足を踏み出すことは、神さまへの信仰に基づく行為です。

イエスさまと共に生きるクリスチャンの人生は、いつも「今まで通ったことがない道」を恵みにより、信仰によって進んで行くのです。ハレルヤ!

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