「混ざること、区別されること」その①

岡崎ホープチャペル発行の週報(2020.04.19)より
聖書箇所:マタイの福音書 5章13節~16節

「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。」
マタイの福音書 5章13~14節

この箇所は大変有名なみことばで、みなさんも何度もメッセージを聞いたことがありますよね。今回は、今までの文脈の流れを通してイエスさまが私たちに伝えたい神の国の価値観について少し分かち合います。平和をつくりだす者は幸いです。しかし、その者は義のために迫害をも受けます。イエスさまを信じて生きる者、神の国を求める者には迫害が来るのです。なぜでしょうか?それは、私たちは世のものと違うからです。

①混ざること。「あなたがたは、地の塩です。」
クリスチャンは迫害を受けますが、だからといって世から逃げ出し、出家して、隠居生活に入るべきではありません。散らされても、どんどん世に入っていき福音を伝えるのです。私たちは世の中で生き、世と接触し、世に遣わされているのです。イエスさまが私たちを遣わしているのです。(ヨハネの福音書17章16節~18節)

料理をするときに欠かせないのが「塩」ですね。「塩」のない料理は味気がありません。混ぜられてはじめて、その圧倒的なインパクトを与えるのが「塩」です。そのことが、クリスチャンが世に混ぜられている第1番の意義です。世の常識に丸め込まれるのではなく、妥協するのでもなく、世から隠れるのでもなく、塩気の効いた生き方とみことばをもってこの世に混じりながら、はっきりと福音の真理を解き放つ存在が教会であり、クリスチャンです。

その生き方は、時に痛みを伴うかもしれません。周りの人々と同調する意見とは異なる場合もあります。しかしその福音のことばは、それを受け入れる人にとっては希望となり、いのちとなり、救いを得させる神の力です。

愛するみなさん、クリスチャンが、教会がこの世に存在しない世界を想像したことがありますか?神さまの愛がない世界、キリストの恵みがない世界、何の希望も持てない世界、それが聖書でいう大艱難(だいかんなん)時代です。「あなたがそこにいる」クリスチャンとして存在している意味は重要です。あなたの置かれている町で、職場で、学校で、家庭でそのことを意識してみてください。私がここにいるのは、神さまの祝福をもたらすためなんだ。私がいることによって、この場所は守られているんだ!あなたがそこに存在している意義を知るとき、あなたの生き方が変わります。
ハレルヤ!

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