「罪の代償と変わらない祝福。その②」創世記マスタープラン 学び第32回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2021.10.03)より
聖書箇所:創世記 3章16節~19節

また、人に言われた。「あなたが妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておい木から食べたので、大地は、あなたのゆえにのろわれる。あなたは一生の間、苦しんでそこから食を得ることになる。大地は、あなたに対して茨とあざみを生えさせ、あなたは野の草を食べる。
あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついにはその大地に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたは土のちりだから、土のちりに帰るのだ。」

②男に対しての代償と祝福

まず罪の代償として「土地がのろわれます」。本来の土地の祝福は、神さまのみこころによって創造された人や動物たちを憩わせ、生き続けるための食物としての草木を生じさせる役割を持っていました。そして人はその地を管理し治める者でした。つまり人間と土地は、神さまの計画と祝福のもとにあってお互いに生かす関係にありました。しかし罪の結果、土地はのろわれ、人が食物を得ようとするなら「一生の間、苦しんで土地から食を得ることに」なりました。「顔に汗を流して糧を得」なければならなくなったのです。神さまの祝福により「生きる喜びに満たされて食べていた」恵みが「食べるために苦労して生きなければならない」ものとなってしまうのです。分かりやすく言うなら、食べることに代表される物質的な欲を満たすためだけに生きるようになってしまったのです。

でも愛するみなさん。福音を知った私たちの人生には、この世が与えることのできない神さまの平安で満たされる祝福を知ります。それは私たちの生きる目的を変えます。なぜなら、初めの神さまの祝福の中に入れられたからです。「食べるために苦しんで生きていた」生き方から「神さまの祝福の中で神さまをワーシップし、喜んで食べる」生き方に変えられたのです。ハレルヤ!

次に、罪の結果の最もなる代償は「あなたは土のちりに帰る」ということです。

私たちには「あなたは土のちりだから、土のちりに帰らなければならない。」ということは極めて自然なことのように聞こえます。しかしそうではありません。確かに人は「土地のちり」から形造られたのですが、それと同時に、神さまの息を吹き込まれた存在であるのです。神さまのいのちをいただいた存在であるのです。それゆえ、人がちりに帰ることは当たり前ではありません。人は永遠に生きるものとして造られたのです。「決して死なない」と言ったサタンのことばは偽りであり、人は死ぬ存在となります。

しかし私たちは、イエスさまの復活によって死に対しても勝利が与えられています。またそれだけではなく、その生き方、その労苦にも意味が与えられ、その労苦は一つも無駄にならないことを知るのです。それが私たちに与えられている慰めであり、希望ですね。私たちの無駄に過ごしてきたと思われる時間さえも贖われるのです。イエスさまと出会ったとき、その時間は買い戻され、益となるのです。罪の代償である死も労苦も、イエスさまを受け入れるとき、そのさばきから解放されるだけではなく「自分たちの労苦が主にあって無駄でないこと」「天に報いがある」ことを知るのです。ハレルヤ!

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