詩篇1篇の黙想「しなければならないこと」と「したいこと」

岡崎ホープチャペル発行の週報(2022.1.23)より
詩篇1篇 1節~3節

「主のおしえを喜びとし、昼も夜も そのおしえを口ずさむ人。」
詩篇1篇2節

主のおしえを喜ぶことができる人!その人は、なんと幸いなことでしょう!

私たちの信仰生活の歩みには二通りの道があります。一つは、「したいことをする」信仰生活です。そしてもう一つは、「しなければならないことをする(したくないけどする)」信仰生活です。
「したいことをする」生き方は、人から何かを言われてするのではないので、自由があり、自発性があります。そこには当然、やりたいことなので意欲が出てきますし、喜びもあります。しかし、私たちの多くは「したいことをする」のではなく、むしろ反対に「しなければならないからする」という生き方の方が圧倒的に多いのではないでしょうか。たとえば、食べていくためには働かなければならないから働く。親だから子どもを面倒見なければならないという生き方。学生だから勉強しなければならないという生き方。もし私が、牧師だから説教しなければならないと、いつも義務的な思いからメッセージしているなら、当然そこには喜びはあまり湧かないでしょう。

でも聖書が言いたいことは、このどちらかが良いということではありません。

もし、したいことだけをしているとすれば、さまざまな人間関係は崩れるでしょう。そこに愛はありません。そこに秩序は生まれません。それが士師記の時代の様子かもしれません。そこに秩序を与えるためには、「しなければならないことをする」ということが避けられません。王が必要になります。基準が必要になります。しかし、「しなければならないこと」が、いつまでもしなければならないことに感じてしまうなら、それは辛く、喜びのないものと言えるでしょう。

しかし、ここからが本題です!

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もし「しなければならないこと」が、「したいこと」と結びつくような道があるなら、それは何という恵みでしょうか。「しなければならないこと」が、次第に「したいこと」に変わっていく。ハレルヤ!それが聖霊さまによって変えられる歩みです。

「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです。」
エレミヤ書 15章16節

主の律法が喜びとなるのです!みことばがあなたの楽しみ、喜びとなるのです。「みことばを守る」生き方と、「みことばを喜ぶ」生き方が重なっていくのです。なぜみことばを喜ぶことができるのでしょうか?そのみことばを愛しているからです!そのみことばを語ってくださる方を愛しているから、その声に従うのが喜びとなるのです。詩篇119:47~48。ハレルヤ!

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