「キリストを得る喜び」完成を目指して:学び第6回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2022.10.9)より
聖書箇所:ピリピ人への手紙 3章1節〜9節

「しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。」
ピリピ人への手紙 3章7節

あなたは自由、解放を望んでいるのに、何か体裁や表面的なことに縛られて生きていませんか?

もしかしたらイエスさまを信じて救われたあとも、まだ何かに縛られているように感じることがありますか。もしそうならあなたを縛っているものは何でしょうか。

パウロはイエスさまを知ったことで、今までの価値観、世界観が180度変化しました。自分が得だと思っていたものが自分を縛っていた、以前は誇りだと思っていたことが自分を不自由にしていたと告白します。それは、今まで誇っていたものがキリストにあって無価値になったということです。イエスさまと出会い、イエスさまを知ったときから彼のすべてが変えられたのです。

人間的な誇り=律法による信仰は、恵みを喜ぶことを失わせてしまいます。

神さまに信頼することを遠ざけて、自分の信仰に立とうとします。それゆえ、恵みを大胆に受け取り感謝することを遠慮してしまいます。自分で得ようとする義は、外側からの飾り物で自分を着飾ろうとします。

しかし、神さまから与えられる義は人から認められるための信仰生活ではなくて、神さまから赦された者と認めてもらって生きることができる喜びです。パウロがどんなに律法を守り、善行を積んでも得られなかった真の救いを、ただイエスさまを救い主と信じる信仰によって得ることができたのです。

律法は恵みを人間的な努力に依存させようとします。しかし、福音は神さまの恵みのみに依存させてくれます。福音は、私たちの頑張りにあるのではなく、神さまの恵みと義にかかっているからです。もし今日、あなたが何かに縛られているなら、自由がないなら、その縛られている罪の本質を神さまの前にさらけ出しましょう。私たちが手放すとき、恵みを受け取ることができるのです!ハレルヤ。

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