「主がお入り用なのです」ルカの黙想:学び第43回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2023.12.3)より
聖書箇所:ルカの福音書 19章 28節〜40節

オリーブ山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づいたとき、

イエスはふたりの弟子に、まだだれも乗ったことのないろばの子を連れて来るように命じました。イエスさまのエルサレム入城のためにどうしても必要だったのが、子ろばでした。ろばの子に乗って入城することがメシヤ預言の成就だったからです。ろばは平和の象徴です。イエスさまが平和の王として、柔和な者として来られたことの象徴です。

「娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。」
ゼカリヤ書 9:9

主がお入り用なのです

そして重要なことは、「主がお入り用なのです。」と言うことばを聞いて、まだだれも乗ったことのない子ろばを差し出した持ち主がいたということです。名もない一人の献身が、イエスさまのエルサレム入城のための大きな働きを助けます。私たちもそのような者とでありたいですね。再び来られるイエスさまの「お入り用」のために、私たちが管理しているものを主にささげていくなら、それはどんなに栄光に富んだことでしょうか。また、主のお入り用のためにどんな小さなことでも私をお使いくださいと言える、主が用いられる教会でありましょう。

また、ろばは用意されましたが、子ろばには鞍もなく、王を迎えるレッドカーペットも敷いてありません。でも、そのために喜んで自分の上着を脱いでろばの上に掛ける者たちや、ある人はイエスさまの通られる道に自分の上着を敷いて歓迎する者たちがいました。ひとりの人の上着だけでは道になりませんが、多くの人たちが主の通られる道を備えるという献身を表しました。信仰的にはまだ未熟な人々でしたが、その時の最善を尽くして主に仕えました。それがイエスさまをお迎えする教会の姿でもあります。おのおの自らすすんでささげる献身によって、主の通られる道は備えられていきます。主の通られる道を備える者でありましょう。

最後に、大声で主を賛美する者たちがいました。

上着を脱いで、大喜びで自分たちの見たすべての力あるわざに対して感謝をささげます。このクワイアは、誰かに指示されたわけでもなく、前もってリハーサルをしていたわけでもありません。今までイエスさまとの歩みを共にした者たちが、感激に満ち溢れて歌い出したのです。

「祝福あれ、主の御名によって来られる方、王に。」

やがてイエスさまも、この賛美とともに再び来られます。どんなにこの世が反対しても、人々が口をふさいでもイエスさまの主権は揺らぎません。そして、イエスさまを迎える賛美は絶えることがありません。もし私たちが黙っても、「石さえも叫ぶ」からです。ハレルヤ!

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