「家を建てる者たちが捨てた石」ルカの黙想:学び第45回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2023.12.17)より
聖書箇所:ルカの福音書 20章 9節〜18節

農夫たちが、主人からぶどう園を任されて

いったいどれほどの月日がたったのか。日々の労働を続けて、汗を流してきた甲斐あって、ぶどう園には立派な実がなっている。そこへ「ぶどうがなりましたね〜。では、収穫の一部を持っていきますよ」と主人のしもべがやって来ます。それは最初から分かっていたことかもしれませんが、農夫たちはその収穫を手渡すのが惜しくなってしまいます。もともと、主人のぶどう園で雇って働かせていただいていた立場です。その土地で得られた収穫は、土地の主人のものであり、その一部を納めるのは当たり前でした。でも、この収穫のために毎日、雨の日も、風の日も働いてきたのは俺たちだ。「この土地は、俺たちがここまで育ててきたんだ!」と思っていたことでしょう。それで、その主人のしもべを打ち叩いて帰します。

「ぶどう園の収穫」は、ぶどう園の主人のものであり、

農夫たちはその管理を任されている者に過ぎませんでした。このことは、神さまと私たちの関係の基本でもあります。土地も空気も水も、与えられた仕事もすべて神さまの恵みであり、私たちは神さまに対して管理する責任を負っているだけです。私たちに起こる様々な問題は、いつも任せられている主人を追いやって、自分が主人になろうとすることから始まります。それを与えてくださった神さまを忘れて、自分の快楽、名声のために生きるようになってしまいます。

しかし主人は最後まで、農夫たちが悔い改めて立ち返るのを期待して

しもべを遣わします。それこそが、神さまの愛と忍耐の姿なのです。農夫たちは、主人が【軍隊】を送ってこないことをいい事に、ぶどう園を自分たちの好き放題にしてました。そしてあろうことか、彼らは主人の【跡取り息子】を殺すことで、ぶどう園を自分たちの手に入れることができると思いました。
この農夫の姿の中に、私たちの姿があります。。。私たちは言います。「そんなことがあってはなりません。」「そんなことありえない」と。でも、私たちの「肉の心」はいつも天のお父さんよりも、自分の立場を優先してしまいます。

「そんなことがあってはならない」という現実が、イエスさまの十字架によって実現しました。

その十字架が、教会を根底から支える愛と義の土台となりました。あなたを滅ぼすまいと、隅の親石となってくださったイエスさまの恵みに感謝して、今日も共に喜びをもって主に仕えることができますように。ハレルヤ!

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