「遊女ラハブの恵み」ヨシュア記の学び 第4回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2024.4.28)より
聖書箇所:ヨシュア記 2章 1節〜14節

3日のうちにヨルダン川を渡るとイスラエルの民に告げたヨシュアは

その前に2人を選んでエリコの町を偵察させます。エリコの町は、カナンの地の要塞であり、関門(かんもん)のような役割のある町でした。したがってカナンを勝ち取るためには、どうしてもエリコを征服することが避けられない戦略の一つでした。夜中にエリコに入った斥候たちは、遊女ラハブの家に泊まります。なぜ彼らがラハブの家を選んだのかは分かりませんが、人間的に考えるなら、おそらく多くの人が出入りする家なので、いろんな情報が入りやすく、また疑われずに泊まれるという理由があったからでしょうか。人間的な観点からすれば、ラハブは裏切り者で、罪深い女で、神さまの恵みから離れている枠外の人です。

しかし神さまの選びの観点から見ると

①ラハブは神さまを恐れた異邦人女性であり
②信仰により神さまが望まれる決断をした人であり
③ルツの夫ボアズの母としてダビデ(ラハブのひ孫)とイエスさまの系図に名前が載せらるほどの名誉を受けます(マタイ1章5~6節)。

彼女は遊女ラハブから、イエスさまの系図に名を残す神の民ラハブへと変えられました。ここに、神さまの選びと、私たちの希望があります。遣わされた2人の斥候も、まさか自分たちの思いでたまたま泊まった家の遊女が、ダビデの系図に、イエスさまの系図に名を残すなんて考えもしなかったことでしょう。私たちは、神さまが成される救いのみわざにどれほど期待しているでしょうか?神さまが成される救いのみわざに勝手に制限をかけていないでしょうか。教会が善人だけが集まるような場所になっていないでしょうか。

わずかな知識に応答し、神さまの主権を認めたラハブ

ラハブはイスラエルの民について聞こえてくる神さまの奇蹟、うわさを通して、天地を創造されたまことの神さまに対する信仰を持っていました。これは驚くべきことです。イスラエルの民たちが、数多くの奇蹟やしるしを実際に体験したのに、まことの神さまではなく金の子牛を拝んでしまうのに、ラハブは、ただイスラエルに成された神さまの恩寵を聞いただけで、まことの神さまを信じ、精一杯の応答をしました。そんな彼女の信仰は、新約聖書でも賞賛されています(へブル人への手紙 11章31節、ヤコブの手紙 2章25節)。

ラハブは遊女であり、最も身分の低い最下層に属していましたが、うわさで聞いたわずかな知識に応答して、神さまの主権を認めました。ラハブの信仰は、アブラハムなどの偉大な信仰者たちと比べて小さく思えますが、今までの自分のあり方を捨てて、新しく主を信じて生きる道を選んだ彼女の人生は、神さまの御前ではどれほどの称賛に値するでしょうか。恵みを受けるに値しない者が、一方的に与えられる祝福が神さまの救いです。きょう、あなたもその恵みを受けることができますように。

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