「主の軍の将との出会い」ヨシュア記の学び 第8回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2024.5.26)より
聖書箇所:ヨシュア記 5章 13節〜15節

私たちの信仰生活にとって、いつも何を見上げていくのか?

ヨシュア記は、その事を私たちが知るための必要なプロセスを教えてくれます。ヨルダン川を渡る(信仰の一歩を踏み出す)→記念の石(神さまが成されたことをすべての人々が知るため)→割礼(すべての恥を取り除く)→過越しの食事(神さまとの関係の回復)⇒主の軍の将(復活の主)

この段落の最後に、エリコの近くでヨシュアが目を上げると、「抜き身の剣をもった主の軍の将」が現われました。この将は御使いではありません。御使は礼拝を受けないからです。その将軍の語ったことばは、神さまがモーセにシナイ山の上で燃え尽きない柴の炎の中から語られたことばと同じです。

「ここに近づいてはいけない。あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は。聖なる地である。」
出エジプト記 3章5節

この主の軍の将こそ、世の初めからおられた救い主イエス・キリストであり、やがて来られる栄光の王キリストであると私は信じています。

わたしが、あなたの将である

ヨシュアは、このお方が誰かわからなかったので「あなたは私たちの味方ですか、それとも敵ですか。」と確認します。エリコでの戦いを前にしたヨシュアは、大きなプレッシャーもあったでしょう。一代目のモーセと比べられ、プレッシャーや心配、ストレスを感じることもあったでしょう。イエスさまに従っていく信仰生活の中で、大きな石がいつも目の前に立ちふさがります。イエスさまは、そんなヨシュアの心もわかってくださっています。
主の軍の将は答えます。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」
敵でも、味方でもない。わたしが、あなたの将であると!

この体験はヨシュア個人が受けた体験という点で特別な意味があります。

神さまは、私たちの都合の良い味方ではありません。神さまは言われます。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」私たちの信仰生活は、私たちの戦いに主を利用することではありません。
主の戦いに、私たちが自分を明け渡していくことなのです。神さまの臨在の前で、私たちは自分の主張を脱がなくてはなりません。私たちが自分たちの履き物を脱ぐとき、代わりに神の子どもとしての靴を履かせてくれます。イエスさまが私たちの主であるので、私たちの信仰も希望も失うことはありません。ハレルヤ!

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