「マナはやんだ。」ヨシュア記の学び 第7回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2024.5.19)より
聖書箇所:ヨシュア記 5章 1節〜12節

「過越のいけにえを献げた翌日、彼らはその地の産物、種なしパンと炒り麦を、その日のうちに食べた。マナは、彼らがその地の産物を食べた翌日からやみ、イスラエルの子らがマナを得ることはもうなかった。その年、彼らはカナンの地で収穫した物を食べた。」
ヨシュア5章11節~12節

ヨルダン川を渡ったヨシュアは、

ギルガルにおいて十二の石を記念として立て、イスラエルの民に割礼を施しました。そして過越のいけにえをささげた翌日、マナがやみました。マナはイスラエルにとって恵みの象徴でした。そのマナがやみました、もうマナを得ることはありません。では、神さまの恵みは終わったのでしょうか???
そうではありません。恵みは続きます。それどころか、むしろもっと大きな恵みによって生きることになります。それがカナンの地の収穫を味わう恵みです!
荒野で与えられたマナは、ある意味、楽に得ることができた恵みでした。その日の分を拾って食べればよかったからです。しかしこれからは、約束の地を勝ち取り、田畑を耕し、大きな労苦を伴わなければなりません。しかし、その収穫を味わうことは遥かに大きな恵みでした。もちろん、神さまが与えられる糧という面では、マナの祝福と同じです。

マナには、あきあきした。

イスラエルの民は、荒野で与えられていた恵みにと不平を言っていました。食べることが出来なかった状況から与えられた恵みでしたが、毎日変わらないマナに、恵みに慣れてしまいました。。。けれども今、約束の地において、マナはやみました。本当の意味で奴隷から解放されます。神さまとの新しい関係が始まると、そこにいのちが生まれてきます。労苦があっても、それに勝る喜びが溢れてくるのです。同じように私たちが御霊によりみことばを味わうようになると、そこには喜びが満ちてきます。聖霊さまの実が実り始めます。愛、喜び、平安へと、私たちの心の領域が勝ち取られていきます。

「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。」
ガラテヤ人への手紙 5章22節~24節

この御霊の収穫の実は、律法に打ち勝ちます。そこには、いやいやながらではなく、強いられてでもなく、いのちの祝福があります。私たちも与えられている約束の祝福を喜んで勝ち取っていきましょう。ハレルヤ!

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