自由人であり、奴隷でもある 1コリント講解第12回

自由人であり、奴隷でもある
コリント人への手紙第1 講解第12回 (2018.04.08)

「①私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、②すべての人の奴隷となりました」1コリント9:19

①すべての人に対して自由である。
福音を伝える者は、福音を信じることによって自由人であります!
ここでパウロは、すべての「人」に対して自由だと語っています。
これは人を無視するとか、人に従わないということではありません。
私は、誰をも恐れることなく、人によって(福音が)妨げられることがない,という大胆な確信です!
福音のゆえに、私は誰に対しても自由であるという確信です。
その確信はどこからくるのでしょうか・・・
それは、イエスさまとの人格的な出会いによる確信です!ただの知識ではなく、人格的にキリストを知り、変えられた。
パウロとキリストとの出会い、それが使徒の条件でもありました。
イエスさまに出会ったパウロはこの世の誰であっても自分を神様から引き離すことができないという強い確信が与えられていました。
それゆえ、パウロは誰に対しても自由であったのです!
そして、この自由はパウロに大胆さを与え、あらゆる困難にもあきらめることなく福音を伝えることができたのです。
私たちも同じ福音を受けている者です!
誰に対しても自由な者なのです。アーメン!

②すべての人の奴隷である。(自由を自制する者です!)
しかし、パウロはこの自由をどのように用いていたでしょうか。
それは、“すべての人の奴隷” となること(仕えること)でした。
ユダヤ人にはユダヤ人のように、異邦人には異邦人のように、弱い者には弱い者のようになりました。
その目的は、「何とかして、幾人かでも救うため」です。(22節)
“人の救い” という目的のためにクリスチャンは、自由でありながらも自らすべての人の奴隷となる(仕える)歩みをするのです!

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