「上の水、下の水」創世記マスタープラン 学び第6回

岡崎ホープチャペル発行の週報(2021.04.04)より
聖書箇所:創世記 1章6節~10節

神は仰せられた。「大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。」

神さまの創造のみわざの第3日目までは、「バーダル」「分離」がテーマです。混沌とした「トーフーバボーフー」の中に、神さまは境界線を引いていき区別と秩序を与えていきます。神さまは「光とやみ」だけでなく、「上の水と下の水」、「かわいた所と海」とを区別していきます。神さまの創造のみわざにおいて「区別すること」は、神さまの変わることのない性質、聖別の概念なのです。そして聖別の概念は、神さまが良しとされる聖書の重要なテーマです。その聖別を曖昧にすることがサタンのわざ(企み)です。

この「上の水と下の水」を神さまの変わらない計画に焦点を合わせて見てみましょう。

上の水を「天」と!この大空=天とは、神さまの居られる所、聖所です。それが天であり、神さまの領域です。天の本体は人の目に見ることはできませんが、その写しであり、目で見える形が「聖所」です。そして聖所が造られた目的が、天の写しである「聖所」において「神が神の民のただ中に住むため」でした。それがイスラエルの選びであり、聖霊の宮であるクリスチャンでもあるのです。(ヨハネの福音書 1章14節)。くどいようですが、神さまの創造の目的は、神さまと人とが共に住むことだからです。

では、もう少しリアルに、霊的には、上の水と下の水とは何を象徴しているのでしょうか。

『御使いはまた私に言った。「あなたが見た水、すなわち淫婦がすわっている所は、もろもろの民族、群衆、国民、国語です』
黙示録17章15節

聖書の中で「海」はあまり良い意味では使われません。天の下の水は深淵、「深み」のままです。海は、キリストを持たない人、「大バビロン」の影響下にある人たちを意味します。一方で、天では別の群衆が 存在します。彼らは「天」において、神さまの御座で賛美を歌っています。

「その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、 御座と小羊との前に立っていた」
黙示録7章9節

荒れ狂う「海」がキリストを持たない人たちを表しているように、天にある水は「神の民」を表しています。彼らはキリストと共に天の御座に座っています。聖別の概念は、神の民がこの世から分離されることを現わしています。そしてその民は永遠に神さまを賛美して、神さまの臨在の中で過ごすのです。ハレルヤ!

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